秋晴れの彼岸入り.
本日は彼岸の入り,家族そろってお墓参りをしました.
季節も一気に秋の気配となりました.
それぞれの秋,私は相変わらず変わり続ける時空に日々翻弄され,出会いや別れの一コマに人生の悲しみや歓喜の涙を流しその日その日を過ごしています.長期化するコロナの影響でその暮らしは急激に変化し,日常が非日常的に,以前は気がつかなかった事でさえ移ろいを感じます(諸法無我).今までの日常にはもう戻れないのでしょう(諸行無常).
気づかぬ内に自身のふるまいは劣化をきたしていたようです.感情抑制機能が低下して,入ってくる情報に憂うつ感,怒りなどの反応が強く現れ,その怒りが普段は家庭菜園やガーデンニングなど季節や自然と向き合う話題を楽しんでいたインターネット・SNS上で先鋭化,社会的事象に関してここのところ頻繁に批判的・攻撃的記事を書き込んでいました.それが偽らざる私自身・凡夫のすがたかもしれませんが.
ネットカルマ 邪悪なバーチャル世界からの脱出 (角川新書) https://www.amazon.co.jp/dp/4040821459/ref=cm_sw_r_cp_api_glt_i_KNGD8HVPA5QC3NWG82V9
太陽が昇る東方,朝日に活力をもらいます.遥か東の彼方にある浄瑠璃浄土には病気を治す薬師如来(仏さまの履歴書 P27)がいるといいます.
西方,沈む夕日は心を穏やかにしてくれます.西の彼方には極楽浄土があると,そして心身を癒やしてくれる阿弥陀如来(仏さまの履歴書 P22)がいるのだそうです.法華経の世界では,これらの如来はお釈迦様の分身であるとされています.
お彼岸とは,春分・秋分の日を中日としてその前後三日を足した七日間です.
春分・秋分の日は太陽が真東から昇り,真西に沈む,すなわち昼と夜の長さが等しくなります.仏教の理想像「中道」を歩む(実践の)教えに合致しているとのことです.
今年の秋彼岸,天候も良さそうです.
仏国土・浄土のことに思いをはせながら朝夕に空を見上げて,自身の人生と重ね合わせて観るのも意義深いのではと思っています.
釈尊の教え,仏教の根本思想である「中道」を歩むとは…
あらためて仏教*1に学ぶ1週間にしたいと思います.
NEW YEAR'S EVE
感動的な出会い,信じがたい突然の別れ,胸詰まる永遠の別れ,命と向き合った1年が終わります.そして,辛く長いトンネルの向こうには一筋の光,燈明がありました.
新型コロナウイルスにも翻弄された2020年が終わろうとしています.
今までの当たり前ができなくなった.そして二度と元(日常)に戻らない様に思えた.突然のように...
多くの人が世界中を移動するグローバル経済の時代,どこかの都市がアウトブレイクすればそれはあっという間に空間を移動する.人類はそのような経済空間を競うように創造してきた.
それぞれ違う風土に存在する体内ウィルスも世界中をあっという間に移動する.
人類はあらゆる事物を細分化し専門化し科学した.そして繁栄をもたらした.一方で細分化された科学はシンクロせずに発展した.あらゆる現象は関係性のなかで縁起するにも関わらず.大学院生の時,大学院とは真理を追究する場であると教授が話した.その時あまりにも細分化された研究に真理の探究なと出来るのであろうか,強い反発を感じたことを記憶している.
今まさに経済と健康の危機管理は股裂きの状況にある.それぞれが別々(の科学)ではない.
突然世界が変わったかのようなコロナの拡大があらゆる事象は別々ではないことを一つの現象で顕在化させた.
自分たちがつくり出した突然のように感じる変化のスピードが多くの人に諸法は別々でないことを今さらながら気づかせた.紀元前から刹那を時間の単位とする真理が存在しているにもかかわらず...
秋の気配.
おじいちゃんの家は小さな町の小さな写真館でした.眼の前に清流が流れる写真館でした.ゴツゴツした岩のある川で沢山遊びました.私が小学生の時までありました.
私の大切な記憶,「水色の写真館」です.
私は初孫でした,とても可愛がってもらいました.欲しいものは何でも買ってくれました.その結果今でも我慢の足りない散財おじさんです.
そして私は今,初孫とのかけがえのない幸せな時空にいます.
祖父の優しい眼差しの意味が,ようやく理解できました.
今年の夏は鬼気迫る猛暑に残暑,そして季節もようやく秋に.
時空のいたずら.
12月も半ばとなりました.
今年になり,Hatena BlogやFacebookに飛ばす写真の記録用に利用していたInstagramに暖かいメッセージを沢山いただくようになり,それがきっかけとなって本格的にSNSとして楽しむようになりました.約1,500名のフォローをいただき,世界とはいかないまでも全国の暮らし,風景やイベント,日蓮宗寺院など今まで知らなかった空間を目にすることが出来ました.そして楽しくコミュニケーションさせていただきありがとうございました.
今いる場・空間がそれぞれ違っても時間を共有できるもう一つの地球(インターネットの世界)のウエートが大きくなっていることを実感します.しかもそこは自分の脳に記憶された思い出だけではなく全てが記録され検索・コピーも可能なネットカルマの世界です.
さて,本年は私にとって大きな変化の年でした.約37年の役人と大学院での研究生活3年合わせて40年を区切りに4月からフリーランスとなったのです.幼稚園(5歳)からですから組織に属さない環境は57年ぶり,なんと半世紀を超えていました.
4月に学会の発表を終えて早速,5月から6月にかけて鎌倉など関東周辺へ自身のルーツを探る旅に出かけました.
思えばいわゆる気ままな一人旅は大学3回生の北海道一周以来です.旅は学生時代の記憶がまるで映画館の巻き取られたフィルムから画像の一コマ一コマを探し出すように(映写機が逆回転するかのように)蘇らせます.
さて,その旅は夏休みということで,全国の学生達と出会い,キャンプをしたり,朝まで語り合ったり,しばらく一緒に旅したり.素敵な方ともめぐり逢いました...
そして卒業,他愛ない夢を捨て就職を決め京都から松江に帰る時,お互い頑張ろうと手紙をいただきました.去りゆく時間を惜しむ私は返事を書くことが出来ませんでした.
今ならLINEやInstagramなどのソーシャルネットで気楽に繋がりが保て記録は積み重なるのでしょうが,あの時のことは自分の脳にだけに書き込まれた淡い思い出です.あの頃が今ならどうなっていたのでしょう...
隣の部屋から妻の笑い声が聞こえます.たぶん娘たちとSNSをしているのでしょう.
センチメンタルな時のいたずら,苦笑いです.また来年もお願いします.ありがとうございました.
今日も妻と時空を共にし穏やかな日々が続いていることに感謝します.合掌
近代の歴史・日連係諸宗派について
日本における近代は明治維新(1868年)から太平洋戦争の終結の昭和20年(1945年)にいたる時代である.
明治政府は,国学・神道を指導理念とし,神仏分離を推し進めた.その結果,全国的な廃仏(排仏)毀釈が行われ,多くの僧侶が還俗,仏教への迫害や沢山の貴重な施設・仏像などが破壊された.1875年(明治8年)まで続く.特に薩摩藩・鹿児島県内は,藩主島津家の菩提寺までが廃寺となり*1,仏教由来の国宝,国重要文化財は一つも存在しない.水戸,高知,松本なども激烈な廃仏(排仏)毀釈が行われた地域である.
身延山久遠寺を総本山,池上本門寺・中山法華経寺・京都妙顕寺・京都本圀寺*2を大本山とする一致派を統一した「日蓮宗*3」という宗派名は1876年(明治9年)の公称以前は,法華宗・日蓮法華宗その他日蓮党などと呼ばれていた.
1898年(明治31年)勝劣派もそれぞれ妙満寺派は「顕本法華宗」,八品派は「本門法華宗」,越後本成寺派は「法華宗陣門流」,本隆寺派は「法華宗真門流」と宗派名を公称した.また大石寺は1900年(明治33年)本門宗を離れ独立し後に「日蓮正宗」となる.
不受不施派は江戸時代以来寺請が禁止されていたが,岡山や千葉では地下に潜行していた.日指派日正は幕末から再興運動を行い,明治9年公許されて「日蓮宗不受不施派」として岡山県金川に妙覚寺を建立した.津寺派は「日蓮宗不受不施講門派」を公称し,岡山県鹿瀬に本覚寺を建立した.
在家仏教運動も発展し,「仏立講」「蓮門教」「高松八品講」などが結成された.その他国柱会(1914・田中智学*4),天晴会(本多日生)など全国的な規模に発展した.大正末期から昭和初期には「霊友会」「立正佼成会」「創価学会」などが生まれた*5.
1940年(昭和15年)には本末解体が行われ,「日蓮宗」「本門宗」「顕本法華宗」の三派が「日蓮宗」に,「本門法華宗」「法華宗」「本妙法華宗」が「法華宗」となった.
終戦後,妙満寺は「日蓮宗」を離脱し「顕本法華宗」を設立した.
近世その2・法華信仰の特徴(仏教書の出版)
檀林教育が各地で盛んになると,
これに併せ仏教書の出版もなされるようになる.その中には日蓮聖人の伝記も刊行されるようになり,近世中期には庶民信仰の高まりとともに,開祖にたいする祖師信仰や守護神*1(鬼子母神・妙見菩薩・清正公・七面大明神・日朝上人)に対する信仰が全国に流布した.特に江戸市域には現世利益を求めて,厄除・日限・願満・安産の祖師像が造立され,聖人にまつわる霊場が生まれた.
加持祈祷が寺院内で行われ,日閑は身延積善坊流の祖と仰がれ江戸に七面大明神が勧請されるようになった.中山では日久が遠寿院流を展開した.修行の根本は身延七面山であり,山岳信仰の霊山*2として修行者が絶えなかった.
一方,浮世絵・落語・浄瑠璃・歌舞伎などのが法華美術として聖人の伝記に使用された.寺院を題材とした葛飾北斎や安藤広重の作品や長谷川等伯・本阿弥光悦*3など文化人が法華信仰を芸術作品として表現した.
<題目塔銘文・建立意図>
江戸庶民は,題目講中を始めとする信仰集団を組織し,寺院の年中行事に参加した.これらの組織は,礼拝時に題目「南無妙法蓮華経」を唱えたので,題目講と総称される.この題目講*4は聖人の50年毎に遠忌の折に題目塔を建立*5してきたのである.
近世に移行・檀林教育の特色(様々な弾圧を受けた歴史)
日本における近世は安土桃山時代・江戸時代をさし,室町幕府の滅亡(1573年)から明治維新(1868年)にいたる時代である.
日蓮宗は,明治9年(1876年)の「日蓮宗」という宗派名公称以前は,法華宗・日蓮法華宗その他日蓮党と呼ばれていた.
近世に移行する中で檀林教育が盛んになり,門流・本寺を中心にそれぞれの檀林が形成される.1580年(天正8年)に京都において最初の檀林が開設された(〜1654年・関西六檀林).関東では1590年(天正18年)に千葉において最初の檀林が開設された(〜1688年・関東八檀林).
1564年(永禄7年),京都日蓮宗諸本山の合意のもと,一致派と勝劣派の融和をはかり,教団の立て直しを目指し,「永禄の規約」が締結された.
1568年(永禄11年)より大阪で天台三大部の講義が行われ,近世日蓮教団の指導者日重(一致派教学の原点・身延20世,功績偉大・日蓮教団を支配)を輩出した.これを受け教学研究の機運が高まった.
一方,近世初頭の日蓮宗は,政治権力の圧力にその方向性を迫られる.織田信長は日蓮宗と浄土宗両宗の僧を集め中立の高僧に判定人を依頼した上で法論を戦わせた(『安土宗論』,1579).日蓮宗の敗北に終わると,信長は日蓮宗側に他宗を誹謗中傷するような布教方法は一切禁じることを命じた.
<安土宗論起請文>
敬白 起請文の事
一 今度江州浄厳院において浄土宗と宗論し、法華の負けとなりしゆえ、相違なし
一 向後他宗に対し一切の法難をしかけざること
一 法華に一分の理を与えられしこと感謝の至りと心得、法華上人衆については一度その位を辞し、改めて任ぜられるべきこと
右の条文:守らなければ,日本国中大小の神祇(天津神・国津神)、大乗妙典、殊に三十番神の罰を蒙ることになる、よって起請文、この通りである
天正七(1597) 五月二十七日
豊臣秀吉は,1595年(文禄4年)方広寺大仏殿千僧供養会のため,天台宗,真言宗,律宗,禅宗,浄土宗,日蓮宗,時宗,一向宗に出仕を命じた.この時日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派(多数の僧侶)と,出仕を拒み不受不施義の教義を守ろうとする不受不施派に分裂(分派)した.妙覚寺・日奥は出仕を拒否して妙覚寺(京都)を去っている.
徳川家康は不受派の弾圧を続け,大坂城で日奥と日紹(受不施派)を対論(大阪対論,1599)させた.権力に屈しようとしない日奥を対馬に流罪にした.1608年,浄土宗の増上寺・廓山と妙満寺・日経との宗論(慶長宗論)で,両者を江戸城で対決させた.日経は,京都六条河原にて耳と鼻を削がれ酷刑に処された(慶長法難,1609年).不受不施派は非合法化された.こうして日蓮教団は,受派と不受派に分裂し,互いにその教義を主張し合うようになっていった.1616年日奥は赦免されて妙覚寺に戻った.
1630年久遠寺・日暹(受不施派)は,池上本門寺・日樹(不受不施派)が久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え,江戸城にて両派が対論(身池対論)した.不受不施派側は敗訴し,流罪の刑に処せられた.不受不施派は江戸時代以来寺請が禁止されていたが,岡山や千葉では地下に潜行していた.日正は幕末から再興運動を行い,明治9年公許されて岡山県金川に妙覚寺を建立した.
このように,不受不施派は弾圧を繰り返されているにも関わらず,檀林は一致派・勝劣派*1を問わず開設された.一致派は天台学を重視する教育課程,不受派は御書(日蓮遺文)を重視した.
<檀林学僧の心得>
新説条目
一 互いに思い合い思いを合わせる異体同心によって,鎮守の加護恩恵の仰事可能となる.
一 昼夜読経祈念に専念すること
一 仲間内で談義の良し悪し(批判)を言ってはならない
一 檀林内はもちろん,弘通先などにおいて,喧嘩口論は固く無用のこと
一 衣類法衣は過分でなきこと(質素なものを着ること)