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近世に移行・檀林教育の特色(様々な弾圧を受けた歴史)

 日本における近世は安土桃山時代・江戸時代をさし,室町幕府の滅亡(1573年)から明治維新(1868年)にいたる時代である.
 日蓮宗は,明治9年(1876年)の「日蓮宗」という宗派名公称以前は,法華宗日蓮法華宗その他日蓮党と呼ばれていた.
 近世に移行する中で檀林教育が盛んになり,門流・本寺を中心にそれぞれの檀林が形成される.1580年(天正8年)に京都において最初の檀林が開設された(〜1654年・関西六檀林).関東では1590年(天正18年)に千葉において最初の檀林が開設された(〜1688年・関東八檀林).

 1564年(永禄7年),京都日蓮宗諸本山の合意のもと,一致派と勝劣派の融和をはかり,教団の立て直しを目指し,「永禄の規約」が締結された.
 1568年(永禄11年)より大阪で天台三大部の講義が行われ,近世日蓮教団の指導者日重(一致派教学の原点・身延20世,功績偉大・日蓮教団を支配)を輩出した.これを受け教学研究の機運が高まった.
 一方,近世初頭の日蓮宗は,政治権力の圧力にその方向性を迫られる.織田信長日蓮宗と浄土宗両宗の僧を集め中立の高僧に判定人を依頼した上で法論を戦わせた(『安土宗論』,1579).日蓮宗の敗北に終わると,信長は日蓮宗側に他宗を誹謗中傷するような布教方法は一切禁じることを命じた.

<安土宗論起請文>
  敬白 起請文の事
一 今度江州浄厳院において浄土宗と宗論し、法華の負けとなりしゆえ、相違なし
一 向後他宗に対し一切の法難をしかけざること
一 法華に一分の理を与えられしこと感謝の至りと心得、法華上人衆については一度その位を辞し、改めて任ぜられるべきこと
 右の条文:守らなければ,日本国中大小の神祇(天津神国津神)、大乗妙典、殊に三十番神の罰を蒙ることになる、よって起請文、この通りである
天正七(1597) 五月二十七日

 豊臣秀吉は,1595年(文禄4年)方広寺大仏殿千僧供養会のため,天台宗真言宗律宗禅宗,浄土宗,日蓮宗時宗一向宗に出仕を命じた.この時日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派(多数の僧侶)と,出仕を拒み不受不施義の教義を守ろうとする不受不施派に分裂(分派)した.妙覚寺・日奥は出仕を拒否して妙覚寺(京都)を去っている.
 徳川家康は不受派の弾圧を続け,大坂城で日奥と日紹(受不施派)を対論(大阪対論,1599)させた.権力に屈しようとしない日奥を対馬流罪にした.1608年,浄土宗の増上寺・廓山と妙満寺・日経との宗論(慶長宗論)で,両者を江戸城で対決させた.日経は,京都六条河原にて耳と鼻を削がれ酷刑に処された(慶長法難,1609年).不受不施派は非合法化された.こうして日蓮教団は,受派と不受派に分裂し,互いにその教義を主張し合うようになっていった.1616年日奥は赦免されて妙覚寺に戻った.
 1630年久遠寺・日暹(受不施派)は,池上本門寺・日樹(不受不施派)が久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え,江戸城にて両派が対論(身池対論)した.不受不施派側は敗訴し,流罪の刑に処せられた.不受不施派は江戸時代以来寺請が禁止されていたが,岡山や千葉では地下に潜行していた.日正は幕末から再興運動を行い,明治9年公許されて岡山県金川妙覚寺を建立した.

 このように,不受不施派は弾圧を繰り返されているにも関わらず,檀林は一致派・勝劣派*1を問わず開設された.一致派は天台学を重視する教育課程,不受派は御書(日蓮遺文)を重視した.

<檀林学僧の心得>
  新説条目
一 互いに思い合い思いを合わせる異体同心によって,鎮守の加護恩恵の仰事可能となる.
一 昼夜読経祈念に専念すること
一 仲間内で談義の良し悪し(批判)を言ってはならない
一 檀林内はもちろん,弘通先などにおいて,喧嘩口論は固く無用のこと
一 衣類法衣は過分でなきこと(質素なものを着ること) 

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*1:勝劣派の中に不受不施派も入るが,勝劣派の一派にすぎない.