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暮らしの雑文

日蓮聖人の教え - 人間観

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 仏教の目指すものは,自己が自我を克服し悟りの境地「涅槃」を目指すものである.一方,聖人はまず社会,国家に目を向け,立正安国の答えを『法華経』に不退転の信仰をもって向かい合いそれを求めた*1.社会がよくなるためにはどうしたら良いか,そのために私たち人間はなにをすべきかという問に対する答えを聖人の遺文に求める.

十界互具と一念三千
 聖人は『開目抄』(人開顕の書1272年2月撰述)で人として学ばなければならない道を説いたものとして,当時日本に存在した儒教・インドの宗教や哲学・仏教をあげ宗教思想を比較し,仏教が優れた人道を説く教えであり,その中でも『法華経』が最も優れている(ただ法華経ばかり教主釈尊の正言なり.三世十方の諸仏の真言なり.)ことを説いた.天台の教学に基づく教判論(五時八教判)によって,『法華経』以外の仏教を爾前経*2(二乗作仏も久遠実成も説かれていない)と一括し,方便の教えと見るのである.そして根本真理を説いた『法華経』でもまた前半「迹門」(二乗作仏)と後半「本門」(久遠実成)に分けている*3
 『開目抄』の翌年,聖人は『観心本尊抄』(法開顕の書1273年4月撰述)を著した.
 本書は,天台智顗の著作『摩訶止観』の「一念三千」を説く箇所の引用から始まっている.われわれのこころに三千の世界があるとする「一念三千」の人間観とは,人間のこころは一瞬のうちに変化する三千という無限大の広がりをもっている.すなわち,こころは十界(十のこころの世界)に分けられ,どんな人でも地獄のような苦しみから仏の世界まで自分自身の内面に持っている.十界(六道・仏・菩薩・縁覚・声聞)のそれぞれが十界を具え*4 ,百界それぞれがありのままの姿(諸法実相)である十如是(要素:相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)を具え*5 ,それぞれがまた三種世間(五蘊衆生・国土)を具えているというものである.私たちのこころがそのまま三千の世界*6なのである.したがって「私とはどのような存在なのか」はその三千を我が心に観ずる実践により答えを見出して行くことが出来るのである.
観心門(実践)について
 『観心本尊抄』は聖人独自の題目・本尊観(日蓮思想の核心)が展開されている. 聖人独自の教判である「四種三段」により,釈尊在世中は本法の正宗分(寿量,一品二半)*7の教説で悟りに至ったが,釈尊入滅後の末法の時代(釈尊の教えだけが存在する時代)となった今は,衆生を主な対象として「妙法蓮華経」の題目によって,仏となる種を植えられるとした.

末法の時代

永承7年(1052)仏滅後二千年.
1272年4月,聖人は塚原から一谷へ移される.ここで観心本尊抄(法開顕の書:釈尊が仏になるまでの修行と,仏になった功徳のすべてが題目に備わり,この題目こそ末法の正法→大曼荼羅を始顕)を執筆する(「文永八年太才辛未九月十二日、御勘気を蒙り佐渡国に遠流さる。同十年太才癸酉七月八日之れを図す。此の法華経の大曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年、一閻浮提之内、未だ之れ有らず。日蓮始めて之れを図す。」).そして流罪を許され鎌倉に戻ったのは1274年3月(53歳)である. 

  末法の時代には,すべての経典に説かれる釈尊の修行とさとりの世界は,「一念三千」を包み込んだ題目「南無妙法蓮華経」と唱えることによって正道となる.『法華経』のみが釈尊の正言でり,それはさらに「妙法蓮華経」という題目に集約されるというものである.
 釈尊の教えは,如来寿量品文底に説かれる観心門,「南無妙法蓮華経」の題目に極められたのである.

 五義について
聖人は,教相門(理論)と観心門(実践)の勝劣を述べる際に,時代の違い(現実社会)を基準にして,その究極を定めた.この教判を「五義」といい,教を機・時・国・序の4つの現実要因に基づいて弘めるための心得であると説いている.  

*1:一切経釈尊の教えとして読み切ったところに『法華経』の真実性が見えてくる.

*2:経には順番があるという意味.

*3:二乗作仏,久遠実成を『法華経』の中心思想と見るのは天台の伝統的な見方であり,聖人の独自性はない.

*4:十界互具.

*5:百界千如.

*6:天台智顗:心があれば三千の世界を具す.

*7:その余の一切の経教は衆生を導くための方便であると判じた.

大乗仏教思想

 「仏教学」とは,思想史(釈尊が説いた教えが,歴史においてどのように解釈されていったのか)に学ぶことである.紀元前後に起こった大乗仏教思想の基本的概念とその代表的経典を議論する.

 大乗仏教の特徴は,貨幣経済など時代の変化・要請に対して民衆の教化をしない,自利行のみの小乗(阿羅漢)仏教を批判した点にある*1

(仏に向かって歩む方便)
 小乗仏教においての目標は阿羅漢*2であり,大乗仏教においては仏*3である.小乗仏教は出家者が阿羅漢になることを目指した結果を第一に求めた仏教である.それに対して大乗仏教は仏に向かって一歩ずつ近づく方便(歩み・プロセス)そのものを大切に考える仏教である.
(菩薩の思想)
 菩薩とは仏になるための方便を行じている者である.仏の概念が時間的・空間的な多仏思想に発展し,さまざまな利他行をおこなう高い境地に達した菩薩*4が経典の案内人として登場した.仏になる資格を持ちながら,この世にとどまり衆生を救済する*5.菩薩であることが重要な意味をもつのである.
(菩薩行 六波羅蜜
 仏教教団は出家主義をとったためサンガの生活は布施*6によりなりたっていた.大乗仏教になると六波羅蜜の一項「布施波羅蜜」に取り入れられた.施しが真の布施になるためには「施す者の心が清浄であること」「なされる者の心が清浄であること」「施物が清浄であること」という三輪清浄(執着を離れた心)が説かれた.また,業のエネルギーを輪廻とは別の方向に向ける「廻向*7」が積極的に説かれた.
仏陀仏陀の身体とは)
 釈尊が説かれた自身の存在は,肉体としての存在(色身仏)と真理としての存在(法身仏)であり,崇拝の対象になるのは肉体を超越した永遠の真理である.色身仏である釈尊は入滅されたが法身仏である釈尊は時間と空間を超越して存在し続ける,大乗仏教仏陀観,真理仏の確立である.
 真理は永遠,普遍である.だとすると過去に真理を説いた仏陀が存在したに違いない「過去仏*8」の信仰と真理を説き続けるための「未来仏*9」の出現である.時間的仏陀が無限であれば次は空間的仏陀の無限,十方世界での無数の仏の存在である.東方の仏国土(浄土)には薬師如来浄瑠璃世界,阿閦仏の妙喜世界,西方の仏国土には阿弥陀如来の極楽浄土がある.
 薬師如来阿弥陀如来と釈迦仏との違いは,釈迦仏はすでに入滅された仏であるのに対し,今でも他の仏国土である浄瑠璃世界や極楽浄土で説法を行っている(今現在説法)「現在仏」であるという仏陀観である.それが真理である「法身*10」,歴史的世界に現れた釈尊である「応身仏*11」,薬師如来阿弥陀如来などの理想仏である「報身仏*12」の三身説へと発展した.
 「般若経」は大乗仏教の先駆の経典である.六波羅蜜を廻向へと向かう菩薩行と定め,釈迦の教えである因果則,輪廻を生み出す業のエネルギーを消し涅槃(智慧の完成)を実現するための出家と修行から日常の善行により涅槃を実現するための「空」の思想が確立された.その後成立した代表的な大乗経典である「維摩経」は「空」の思想が説かれている.「法華経」は前半で小乗仏教大乗仏教もすべて釈尊の説かれた一仏乗に包摂される(悟りの可能性を授記する)とする.後半では,仏はすでに久遠の昔に成仏しており, 永遠の過去から永遠の未来にわたり衆生を救済し続けるとする.
 「浄土三部経」は,空間的仏陀に目を向け,人々の救済のため四十八の誓願を立て長い修行をした*13極楽浄土の教主である阿弥陀仏と極楽浄土への往生と修行を説いている.
 「華厳経*14」はこの全宇宙が毘盧遮那仏の顕現であると説き,毘盧遮那仏は宇宙に遍満する智慧の光とされ,それが悟りの本質であるとする*15
 「涅槃経」は釈尊が入滅の直前に説かれた教えとされる経典*16である.いっさいの衆生に仏性*17(仏になれる本性)がある*18としている.
 「勝鬘経」は大乗仏教の在家中心主義を示す*19経典である.

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*1:大乗vs小乗の構図は後の時代に作られたものか?

*2:仏になるという発想自体思いもよらない傲慢なものであり,仏と重なるのは,解脱を達成して涅槃の境地という点のみ.(初期仏典には「複数の仏」の表現が出てくる.「buddha」の意味は「目覚めた」であるので,最初は修行への道に「目覚めた」そして釈尊と一緒に修行をしていた者から,釈尊入滅後は「悟りを獲得した者」の意味に変わる.)

*3:実際には阿羅漢は仏「十号」の一つ.「仏になる=悟りを得る=解脱する」は,大乗も小乗も同じ目標であったであろう.

*4:観世音菩薩,文殊菩薩弥勒菩薩地蔵菩薩普賢菩薩など.

*5:仏になったら来世はないので菩薩が設定されたのであろう.

*6:布施には事物への執着を捨てる意味がある.

*7:自分の獲得した資糧を他者に回すこと.

*8:毘婆尸,尸棄,毘舎浮,拘留孫,拘那含牟尼,迦葉,釈迦(過去七仏)ただし大乗仏教以前にも過去仏は説かれている.

*9:弥勒菩薩

*10:無始無終,毘盧遮那仏大日如来

*11:有始有終.

*12:有始無終.

*13:法蔵菩薩

*14:もともとは別なる経典がまとめられたもの.核は「八法界品」.

*15:中国華厳宗的理解.

*16:実際には後期大乗経典.

*17:常楽我浄.

*18:一切衆生悉有仏性.

*19:如来蔵思想(仏性思想).

仏教の根本思想

根本思想(釈尊の真意),時間と空間を超えて不変で有り続ける教えとは何か.

 釈尊の教え(悟り)は,「自己」自身に依り,諸々の従属*1や他の神による自己影響から離れて自己実現*2出来る唯一無二の教えである.

 その教えは,シッダールタ*3比丘が菩提樹下で禅定に入り一切の煩悩(悪魔の誘惑)を断ち切り自分がブッダになったことを覚った,自身が悟りを開くための道理である「縁起」の思想であり,梵天勧請により他を指導教化するために*4五比丘に語り伝達された*5初転法輪」の教えである.

 釈尊の「縁起」思想は,初期経典*6に「縁起を見る者は法をみる.法をみる者は縁起をみる」という名高い言葉をみることができる.
 この世界のもの一切は,必ず変化し滅びゆく.恒常的常住不変の存在は一切なく,生じたものはまた必ず滅する.すべては縁*7によって生じ縁によって消滅することを無限に繰り返す(通時的・時間的縁起,諸行無常).すべては縁によって成立する,存在と存在との関係であるだけでどこにも永遠不滅の実体はない(共時的・空間的縁起,諸法無我)という釈尊の覚った真理の教えであり仏教の根本思想なのである.つまり「AがあるときはBがある.Aが生じるがゆえにBが生じる.AがないときBがない.Aが滅するゆえにBが滅する」,この世の中の事物はすべて相互に依存し合っており,いずれも相対的な存在*8である.

 次に釈尊は成道,覚りを内に秘めてそのまま涅槃に入ろうとしたが,バラモン教の神梵天が,その悟りを他者に説くよう勧め,釈尊は自身の涅槃の境地だけではなく伝道を決意し最初の法を説いた「初転法輪」の教えである.基本的には四諦(因と果を明らかにした4つの真理)の教えである.以下,四諦を記述する.
 「苦諦」は,現実世界の在りようは苦であるという真理である(一切皆苦).人生は苦であり,その苦は四苦八苦*9に分類されている.生=生まれることについても苦ととらえるのは輪廻転生の考えがあるからである.生まれることは,6つの世界(六道*10輪廻)での迷いの生存となるからである.
 「集諦」は,欲望・執着*11(欲愛・有愛・無有愛*12)の尽きないことが苦を生起させているという真理である.「縁起」の真理により,「集諦」(「一切皆苦」の因)は「苦諦」(「一切皆苦」の果)を導き出すのである.
 「滅諦」は苦を滅することが欲望のなくなった理想の境地であるという真理である(涅槃寂静).「縁起」の真理により,「集諦」(「一切皆苦」の因)をなくせば「滅諦」(「涅槃寂静」の果)を導く事ができる.
 「道諦」は苦滅にいたるためには八つの正しい修行方法(八正道)によらなければならないという真理である.すなわち,①正見:正しく法(ありのまま)を見る,②正思:正しく法を思う(思惟),③正語:正しく法を語る,④正業:正しく法を行う,⑤正命:正しい命に生きる,⑥正精進:正しく戎律を犯さぬよう努力する,⑦正念:正しく法を記憶する,⑧正定:正しく心を禅定して安定させる,である.「縁起」の真理により,「道諦」(涅槃寂静の因)は「滅諦」(「涅槃寂静」の果)を導くのである.

 釈尊の入滅後は,金言の永続的承継のための「結集*13」が行われ,教え(経)と戒律(律)の確認を成し遂げた.入滅後100年頃になると,教団は律の解釈をめぐって分裂をかさねた.分裂した各部派*14は,自派の教理にもとづいて聖典を編纂しなおし,独自の解釈を立てて論書を生み出した.それらはアビダルマといわれる.そして,これを集めたものが論蔵(アビダルマ蔵)で,ここに経蔵・律蔵とあわせて三蔵が成立している.

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釈尊最後の旅,涅槃入滅の意義(大般涅槃経典のメインテーマ)について 

NHK「100分de名著」ブックス ブッダ 最期のことば

NHK「100分de名著」ブックス ブッダ 最期のことば

  • 作者:佐々木 閑
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仏陀は我々と同じ様に死をむかえるということなのか,あるいは違うことなのか.
 釈尊でも物質的な死は必ず訪れる.教えと実践により繋がる(現在化される).

② 死とはいったいどういうことなのか.仏陀はどのように死を我々に示そうとしているのか.
 死とはどういうことなのか答えることに意味はない(無記) ,修行に励めば,心の苦しみから最終的に解放される. 

*1:「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである。 スッタ二パータ

<解説>「従属」とは「依りかかり止まる」という意味.無常で変滅するものに身をあずけ依りかかり,執着すると安定は得られない.大地が震動すれば自分も動く.従属すべきでないものに従属しては危険である.

*2:真理を自覚した者

*3:サンスクリット語パーリ語ではシッダッタ

*4:仏伝を作成する上で加えられたと考えられる.

*5:五人は次々と悟りを開いて阿羅漢になった.「初転法輪」(初めて真理を説くこと)によって,五比丘たちは弟子となり,最初のサンガ(僧伽)が形成された.これにより三宝(仏,法,サンガ)が整った.

*6:南伝大蔵経

*7:原因と条件(因縁).

*8:言葉も相対的.

*9:生・老・病・死,愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦

*10:天道・人間道・修羅道(三善道),畜生道・餓鬼道・地獄道三悪道).

*11:苦の原因は渇愛(Taṇhā タンハー)存在(Bhavaビハーバ)への執着である.また,何らかの存在として再生したい,と思うことで,輪廻的世界(苦)にとどまることになる.

*12:仏教では「愛」は本質的に自己中心であり欲望・執着である.肯定的な「愛」は,仏教では「慈悲」と呼ぶ.

*13:第一回結集:入滅の年(おおよそ紀元前5世紀末〜紀元前4世紀はじめ).

*14:根本分裂は,戒律の解釈とされるが,その後の部派分裂はさまざまな要因が考えられる.

天台の教え(五時)

三照譬,五味譬,長者窮子喩

 天台大師は,印度から渡ってきた膨大な仏教典類を分類・整理するため,化法の四教・化儀の四教の「八教」と「五時」の教判を説いた.「八教」の教判が,釈尊一代(50年:成道30歳〜入滅80歳)の説法の内容・形式(薬・処方)を分類したものであるのに対して,「五時」教判は更にこの説法を時間的に区分したものである.
 天台大師はこの五時を説明するに当たって,その意義と理由について,『涅槃経』の「五味」,『華厳経』の「三照」,『法華経』信解品の「長者窮子」の譬喩を用いて説いている(下図のとおり).

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  最初の華厳時は,釈尊が悟りを開いた直後の三七,21日間をいう.この時釈尊が説いた『華厳経』は,高度な悟りの内容が披瀝されているので聴聞するほとんどの者は理解できなかった.そこで釈尊は段階的に時間を追って説法することにした.
 三照譬では,『華厳経』のことを「日が初めて出て高山を照らす」のに譬えていて,悟りを目前にした普賢菩薩等に対して厳然と説かれた姿を形容したものである.しかしほとんどの者は理解できなかったので,『法華経』の長者窮子喩では,長者が立派な姿をした使人を窮子に近づけ逃げられたことに該当し,擬宜(よろしきところをおしはかる)に譬えた.

  そこで小機の者の為に釈尊は,先ず小乗経典の教えである『阿含経』を説いた.これは,三照譬では幽谷を照らすことに,また法華経では,窮子との直接交渉に失敗した長者が,粗末な身なりをした使人を遣わしたことに当たり,誘引に譬える.
  鹿苑(阿含)時に続くのが,方等時である.この時説かれた経典は『維摩経』等の大乗経典である.阿含の小乗経を説いたあと釈尊は,種々の大乗の教えを説き大乗へと導いた.これは,長者窮子喩の中で,長者が窮子を向上させる過程を指し,弾呵(小乗の教えにとどまっているのを叱る)に相当する.また三照譬では,平地を照らす中で一番日の低い食時(じきじ)(午前八時)に譬えられている.
 そして第四の『般若経』が解かれる.方等時において釈尊は,小乗と大乗は別のものであり優れた大乗への転向を説いた.ここでは,小乗の執着からさめた衆生に対して「空」を説き,大乗と小乗を対立的に考えていた方等時の衆生を一切空の立場から否定し,本来すべてが大乗であることを示した.これは,長者窮子喩では,長者が窮子に対して我が子のように接し重要な役を与えることを指し,淘汰(より分け精選する)に当たる.
 また三照譬では平地を照らす中の禺中(ぐうちゅう)(午前十時)に譬えられる.
 最後が法華涅槃時である.釈尊はずっと次第を追って経を説いた.それはそれぞれの者を『法華経』に導きすべての教えを統合するための方便であった.この『法華経』は,長者窮子喩では,長者が窮子を我が子であると開顕して家業を継がせることに当たり,三照譬では正中(しょうちゅう)(正午)といって一番高い位置から平地を遍く照らし出すことに譬える.
 そして後番を涅槃時といい,一日一夜の説法をいう.醍醐とは醍醐味(だいごみ)のことで,牛乳から精製して最後に完成する色香味のすべてに勝れた妙味の食物をいい,「涅槃経」には一切の病を消滅する妙薬と説かれている.
 五味譬については,『大般涅槃経』の「五味相生の譬」の一節,「牛より乳を出し,乳より酪(らく)を出し,酪より生蘇(しょうそ)を出し,生蘇より熟酥(じゅくそ)を出し,熟酥より醍醐を出す,醍醐は最上なり.」のとおり,数々の経典を経た最終形態が『大涅槃経』という内容の譬えとして,乳製品の最上級品である醍醐が使われている.教えを聞くものの機根*1が熟していくことに譬えてそれぞれ図の様に五時に配当されている.

 この天台大師の五時の教判によって,釈尊の一代の教説は『法華経』を根本に整理され,体系づけられたのである.

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参考:https://www.min.ac.jp/img/pdf/labo-sh17_27L.pdf

*1:教えを聞いて修行できる能力.

日蓮聖人の教え - 経典と本尊

 仏教の目指すものは,自己が自我を克服し悟りの境地「涅槃」を目指すものである.一方,聖人はまず社会,国家に目を向け,立正安国の答えを釈尊が説いた教えであるという認識に基づき仏教経典*1に求めた.「本当の教主と正しい教えとは」の答えを聖人の遺文に求める.

 聖人は各宗派の経典は小乗,権大乗であるため不完全な教えであり,法華経だけが釈尊の本意(一仏乗)が説かれた「正しい教え」であるとした.また,聖人は「本当の教主」本尊は三徳(主・師・親*2 )を具足している釈尊以外にはいないとした.
 聖人は,当時日本に存在したすべての仏教宗派を「一代五時図 *3」に書き加え,その代表的祖師と依経の名を示した.
 華厳経(三七日)は,声聞・縁覚以下の者は理解できない権大乗教である.華厳経は天台の教判では法華経と同じ円教であるが,別教の教え*4を兼ねている.
 阿含経(一二年)は,四諦・十二因縁・六波羅蜜の教えをそれぞれ声聞・縁覚・菩薩の三乗別々に説き示し,阿羅漢の位を得ることを勧めている小乗(声聞=四諦,縁覚=十二因縁)の教えである.
 方等時,般若時の経典(三十年)では,方等時は浄土宗,真言宗禅宗など小乗と大乗を合わせ説き,大乗へ転換させることを目指す方便の教えの権教であり,般若時の教えは,仏教を大乗・小乗に二分する見方を廃止し,一切空を説く権教である.
 涅槃経(八十入滅)の特徴は,「追説追泯」であり,取り残された者を救うためにもう一度説き再び開会する雑然なる教えである.
 このように,聖人は各宗派を全面否定ではなく不完全,不足するものと説いている.
 そして聖人は,法華経(八箇年)こそが釈尊の教えの本意を完全に解き明かしている実大乗の経典であり,その実大乗「正しい教え」に従うことを強く説いた.
 一方,「本当の教主」に対する答えは『一代五時鶏図*5 』に示している.特に釈尊については三徳が示されている.
 「譬喩品」第三の「今此の三界は皆是れ我が有なり,其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり.而も今此の処は諸の患難多し.唯我一人のみ,能く救護を為す.」について,聖人が51歳(1272*6)で書いた『八宗違目抄』には,“今此の三界は皆是れ我が有なり”に「国主」を見出し,“其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり”に「親」を,“而も今此の処は諸の患難多し.唯我一人のみ,能く救護を為す”に「師」を見出している.三国の中でこの三徳を備えている聖人は釈尊以外いないということである.
 さらに聖人は,仏教の中での仏身の勝劣を三身論*7法身・報身・応身)に各仏身が住んでいる場所である四土*8(同居土・方便土・実報土・寂光土)を対応させて説く.4種の仏身(劣応身・勝応身・報身・法身)を示し,各宗派の本尊が持つ功徳を示すのである.結果天台宗の本尊は三身を備える.
 天台宗の本尊は迹門の釈尊(応身は有始有終・報身は有始無終・法身は無始無終)と本門の釈尊(久遠実成の三身は無始無終)である.
 よって法華経釈尊は三身具足の教主・本尊なのである.

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*1:8万4千ほどあるといわれている.

*2:仏は,三界はみなこれ我が有として,この世を治めるから「国主」である,一切衆生を教え導くから「師」である,一切衆生はみな我が子なりと憐れむから「親」である(「譬喩品」第三).

*3:天台大師智顗(538-597)により体系化.

*4:天台智顗と別の解釈:釈尊が前仏から学んだ思想で,独自の釈尊の思想ではない.法華経(寿量品)こそ永遠の仏(久遠実成)のあらわれとして現世肯定が語られた.

*5:前半で教判,さらに経典で説かれる仏を整理.

*6:1272年4月,聖人は塚原から一谷へ移される.ここで観心本尊抄(法開顕の書:釈尊が仏になるまでの修行と,仏になった功徳のすべてが題目に備わり,この題目こそ末法の正法→大曼荼羅を始顕)を執筆する.そして流罪を許され鎌倉に戻ったのは1274年3月(53歳)である.

*7:仏の身体として現れた功徳を3つの視点から示したもの.4世紀頃までの中期大乗仏教では,法身(永遠身)と色身(現実身)の二身説だけであったが,5世紀頃までには三身説が成立した.

*8:智顗が提唱した仏土説.

法華経における最大のメッセージである「如来使たれ!」について

如来使たれ!
 法華経に特徴的なことは,法華経そのものへの信を説く点にある.「菩薩行」の根本に求められるのは,すべての者は成仏できるということに疑いを抱かない法華経への信である.
 信じることによって,はじめて受け入れることができるのである(『譬喩品第三』).
 人間の内面的営みである信を可視化するには,行為・実践による表現が必要である.その実践は,「五種法師:受持(教えや戒律を受けてそれを守ること),読(経典を見て唱えること),誦(記憶している経典を唱えること),解説(他者に解説すること),書写(写経すること)」として示される(『法師品第十』).
 つまり,「五種法師」は法華経への信を根本においた利他行,菩薩行である.
 釈尊の唯一の目的である「一大事因縁*1」をみずからの「菩薩行」(=「五種法師」)において実践する者を「法師」「如来師」と位置づけている(『法師品第十』).
 これらの実践は,釈尊の救済活動を「現在化*2 」しようとする営みであり,「法師」「如来師」は釈尊を永遠化する者である.法華経における最大のメッセージである「如来使たれ!」は,菩提樹下で悟りを開いて仏陀となった釈迦個人の存在(在世)を超えた“永遠に救済活動を行い続ける存在”を呼びかけたものである.
 「一大事因縁」を「現在化」する「法師」「如来師」の活動がない限り,釈尊は,過去の仏となってしまう.「法師」「如来師」たることをみずから決断し,実践し続けることのみが,釈尊の永遠性を保証するからである.
 そして自分が今も救われずここに存在することの「罪*3」 の自覚“もう二度と背くまい”が固い決意を生み出す.また,この悪世に生まれてきたのは,過去世に自らが立てた「誓願」によるものである(『法師品第十』).
 「罪と誓願」,自己の過去世における真実と受け止めることは,「如来使」たることの決断と勇気を与えてくれる.

 「無始の成仏」「六或示現」について
(「無始の成仏」)
 仏の寿命は無限であり,永遠の生命であること「永遠の仏」を説いたのが『如来寿量品第十六』である.
 釈尊は,無限といってもよいほど遠い過去,久遠の昔にすでに成仏した(久遠実成)ことを明らかにする.近きを開いて遠きを顕かにするという「開近顕遠*4」とは,このことである.また,目に見える仮の姿(歴史上の釈尊他)をした仏が「垂迹」で,久遠の仏が「本地」であり,「開迹顕本」ともいう.そして無限の過去における成仏から今に至り,永劫の未来にわたって救済活動を続ける,「永遠の仏」であることが語られていく.
 娑婆世界で成仏した釈尊が「永遠の仏」であるならば,娑婆世界は「永遠の仏」が常住している世界であり,「永遠の浄土」なのである.しかし「自我偈」によると娑婆世界の「顛倒の衆生*5」は苦しみに満ちている.
 釈尊は「顛倒の衆生」をそのままにはしておかない.「顛倒の衆生」への永遠の救済活動の展開は,『如来寿量品』に「六或示現」という形で示されている.
(「六或示現」)
 釈尊は様々な姿を示し,様々な手段を講じて救いへと導く.分身の諸仏(阿弥陀仏薬師如来などさまざまな仏,三世十方の仏)とは,永遠の命をもった本仏釈尊である.すべての個別的仏は,久遠実成本師釈迦牟尼仏の分身であり,永遠の仏としての釈尊に統一された.

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*1:三世十方の諸仏はただ一つの重大な因縁・目的をもって,この世に出現したのであり,その唯一の重大な因縁・目的とは,一切衆生を皆,真の成仏に導くためだったと説いた(『方便品第二』).

*2:現実の中に現れ,実際に人々に働きかける.

*3:法華経では「罪」は二乗に関してのみ語られるが他人事として捉えるべきではない.

*4:「近」は菩提樹下で悟りを得た釈尊のこと,歴史上の釈尊を,「遠」は『如来寿量品』で顕かにされる五百億塵点劫の昔に成仏した釈尊のことを示す.

*5:物事をありのまま見ることができないこと.

初転法輪・仏教成立

梵天勧請

 釈尊は成道,覚りを内に秘めてそのまま涅槃に入ろうとしたが,バラモン教の神梵天が,その悟りを他に説くよう勧め,釈尊は自身の涅槃の境地だけではなく説法を決意した*1

初転法輪」の教え(他を指導教化するための教え)

・中道の教え(偏執的妄執にとらわれることなく自由(あるがまま)な状態に自身を置くことの実践,正しいとは離辺「正は中なり」)

四諦の教え(因と果を明らかにした四つの真理「正は等なり」)
「苦諦*2」迷いの生存(現実世界の在りよう)は苦である(行苦)という真理.
「集諦*3」欲望の尽きないこと(渇愛)が苦を生起させているという真理.
「滅諦*4」苦を滅することが欲望のなくなった理想の境地であるという真理.
「道諦*5」苦滅にいたるためには八つの正しい修行方法(八正道*6)によらなければならないという真理.すなわち,①正見:正しく法(ありのまま)を見る,②正思:正しく法を思う(思惟),③正語:正しく法を語る,④正業:正しく方を行う,⑤正命:正しい命に生きる,⑥正精進:正しく戎律を犯さぬよう努力する,⑦正念:正しく法を念ずる,⑧正定:正しく心を集中して安定させる

四法印諸行無常諸法無我涅槃寂静一切皆苦

五蘊(ごうん):現象世界を構成する5つの要素

 色(=肉体)・受(=感覚)・想(=想像)・行(=心の作用)・識(=認識・意識)

・無我:自己存在が絶対性として存在することはないという洞察.

 仏教の最も基礎的な現実認識論

 以上が五比丘に語った「初転法輪」の教えであったという.

 初転法輪」の意義

 「初転法輪」によって,五比丘たちは弟子となり,最初のサンガ(僧伽(そうぎゃ))が形成された.これにより三宝(仏,法,サンガ)が整った.これは,仏教成立とも言いかえることが出来る.
  そして釈尊の教え(法の説き方)は,教える相手(聴聞者)の能力・性質に応じた「対機説法*7」であった.

サンガの役割

(1)在家集団の形成による経済的な運営基盤.
 仏弟子と在家者をつなぐ優れた出家者組織であるサンガは,富豪な商人など有力な在家者を獲得した*8
(2)結集による三蔵の成立.
 釈尊入滅により,釈尊の言葉を忠実に編集するため,仏教サンガが結集し,金言である経と律と論の編集がおこなわれ,仏教の伝播がなされた(可能となった).
(3)仏教の発展・分裂,維持装置としてのサンガ.
 サンガはその律を場所や時代により改変していくことにより,分裂・拡張し世界に伝播し次代に伝える役目をなした.

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*1:当時インドで最高の神ブラーフマンに請われて教えを説いたとすることで説法開始(初転法輪)を権威づけたのであろう.

*2:四法印一切皆苦・・・苦(果)

*3:四法印一切皆苦・・・集(因)

*4:四法印涅槃寂静・・・滅(果)

*5:四法印涅槃寂静・・・道(因)

*6:中道の具体的な実践方法のこと.快楽や苦悩など,両極端を避けること,極端にとらわれない実践.

*7:「応病与薬」とも呼ばれている.人それぞれに自分の「中道」がある.

https://youtu.be/GxYWYh9qg0Q

*8:仏教サンガの経済基盤は供養(お布施)だけ.生産活動は一切禁じられている.