近世の日蓮教団の動向(不受不施,檀林,法華信仰・守護神仰)
日蓮宗は,明治9年の「日蓮宗」という宗派名公称以前は,法華宗・日蓮法華宗と呼ばれていた.
日興が去ってから,身延の中心は日向,日朗,日昭は関東に広く普及し,特に日朗は池上本門寺を中心に勢力を拡大した.また日常は下総に拠点を構えた.日朗の流れを汲む日像は京都に教線を伸ばし京都二十一箇本山を中心に大きく発展した.
しかし,その急速な発展は叡山などの反発を招き攻撃を受けた.近世に移行するなかで,権力に屈しない日蓮宗はさまざまな弾圧を受け続けた.織田信長は日蓮宗と浄土宗両宗の僧を集め中立の高僧に判定人を依頼した上で法論を戦わせた(『安土宗論』,1579).日蓮宗の敗に終わる*1と,信長は日蓮宗側に他宗を誹謗中傷するような布教方法は一切禁じることを命じた.
豊臣秀吉は,1595年(文禄4年)方広寺大仏殿千僧供養会のため,天台宗,真言宗,律宗,禅宗,浄土宗,日蓮宗,時宗,一向宗に出仕を命じた.この時日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派と,出仕を拒み不受不施義の教義を守ろうとする不受不施派に分裂した.妙覚寺・日奥は出仕を拒否して妙覚寺(京都)を去っている.
徳川家康は不受派の弾圧を続け,大坂城で日奥と日紹(受不施派)を対論(大阪対論,1599)させた.権力に屈しようとしない日奥*2を対馬に流罪にした.1608年,浄土宗の増上寺・廓山と妙満寺・日経との宗論(慶長宗論)で,両者を江戸城で対決させた.日経は,京都六条河原にて耳と鼻を削がれ酷刑に処された(慶長法難,1609年).不受不施派は非合法化された.こうして日蓮教団は,受派と不受派に分裂し,互いにその教義を主張し合うようになっていった.1616年日奥は赦免されて妙覚寺に戻った.
1630年久遠寺・日暹(受不施派)は,池上本門寺・日樹(不受不施派)が久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え,江戸城にて両派が対論(身池対論)した.不受不施派側は敗訴し,流罪の刑に処せられた.