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暮らしの雑文

資料(漢文)講読,書き下し

(資料購読)「日朗*門流起請文」元応二年(1320)京都妙顕寺所蔵

本門寺日朗聖人御遷化之後、為其御門弟法門弘通意趣一、本所遺跡、可一味同心、自今以後、若於一人法門不審者、衆徒令一同相互令論説落居之後、可通其意趣者也、仍雖尽未来際、妙法弘通為断絶、令連書之状也、若於背此旨趣者、法華経中之三宝並大聖人、朗聖人御罰其身可罷蒙者也、仍誡之状、如件
  元応二年太歳庚申三月二日     

        (省略)(花押) 

此外護中臈・若輩不勝計、不及委細註

池上本門寺日朗聖人御遷化の後,われわれ師弟は法門布教の考えをなし,本所遺跡を守り,心を一つになすべく,今から後,もし一人でも法門が疑わしきことあらば,衆徒は一同に,相互に論説落居せしむ後,その考えの普及をすべきこと,なお未来の果てに至るといえども,断絶することなく妙法弘通をなす.この状を連署せしむ,もしこの趣旨に背くようなことあらば,法華経中の三宝(仏法僧)並びに大聖人,日朗聖人により,その身に御罰を受けるべし,それゆえ戒めの状,件の如し」

「さらに中位に位する者・若輩をまもり,勝計すべからず,委細補足説明に及ばず」

*日朗は文保2年(1318)に比企谷妙本寺(鎌倉市)と池上本門寺を日輪に譲った.日朗は元応2年(1320)七六歳にて示寂し,六七日忌にあたる3月2日にその弟子らは起請文を連署した.すなわち,池上本門寺日蓮が歿した地であり,かつ遺骸を荼毘にふした場所であったことから,弟子たちにとってここは本所遺跡としての性格を持っていた.弟子たちは,師匠の寺院や教義を守り続けた.

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【漢文】 

 漢文とは:古代中国人(一般に清代以前の中国人)が漢字を用いて書いた文章や詩.
      ※ 漢字のみの表記(白文)
      ※ 基本の語順
      (主語)(述語)(目的語・ヲニト)

 日本では:白文に,訓点(句読点,返り点,送り仮名)→訓読文
       ※ 送り仮名(歴史的仮名遣い,カタカナ表記,漢字の右下)

書き下し文:漢文を,返り点と送り仮名に従って書き下したもの
       ※ 助詞・助動詞,置き字,再読文字に注意
 (1)書き下し文は,漢字とひらがなで書く
 (2)助詞・助動詞は書き下し文に漢字で書かない
    助詞の例:の・か・や・より・と・かな・は・のみ
   助動詞の例:ず・しむ・る・らる・なり・べし・ごとし
 (3)置き字は書き下し文に書かない
・書き下し文発展法則
  ★ 再読文字の2回目の読みはひらがなで書く

・返り点(漢字の左下)
  基本は上から下へ読む(返り点がない文字を読む),返り点がある場合は下から上へ読む.(基本 ↓方向に順番をつける.)
  レ点:一文字で返る時(下の一文字から上の一文字に返って読む)
 一二点:それ以外返る時(一まで行ってから二へもどる)
     ※ 二字またはそれ以上へだてて返って読む
     ※ 二つ以上「一二点」がある場合は,セットを作って考える
 上下点:一二点を間に挟んで返る時

・返り点(漢字の左下)の発展法則
 (1)一点とレ点,上点とレ点の組み合わせ
     ※ 先にレ点に従って読み,次に一二点や上下点にうつる
 (2)二字熟語(「- ハイフン」で繋がった単語)に帰る時は二文字の間に返り点を付ける

・置き字(而・於・乎・于・矣・焉・也・兮)
 前置詞・終尾詞・接続詞
 順序をつけない漢字,読まない 

・再読文字(未・将・且・当・応・宜・須・猶・盍) 
 未:いまだ〜ず(読み方)
   いまだ 未然形 + ず

 将:まさに〜んとす
 且: 同上
   まさに 未然形 + んとす

 当:まさに〜べし
 応: 同上
   まさに (基本的に)終止形 + べし 例外(ラ変連体形)

 須:すべからく〜べし
   すべからく (基本的に)終止形 + べし

宜:よろしく〜べし
   よろしく (基本的に)終止形 + べし

 猶:なほ〜(の)ごとし
   名詞+の
   動詞(連体形)+が

 盍:なんぞ〜ざる
   なんぞ 未然形 + ざる

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中観思想,唯識思想

 大乗仏教釈尊が説いた縁起の教えを「空」の理論に精緻化していく.すべては変化し続ける(無常),不変の実体はない(無我),すべては連続性・関係性の中で成立(縁起)している,すべての存在は要素の集合体に過ぎないととらえる.大乗仏教の先駆の経典である「般若経」において提示された「空」は,その後ナーガールジュナ(龍樹,2〜3世紀)が著した『中論』などに基づき理論が体系化されていく.

(中観思想)

 中観思想は,あらゆる存在(諸法)は有無や常断などの二極端を離れて,実体性を欠いている無自性(空性)である*1ことを説く.これは釈尊の縁起説を「空」*2という概念で説明したナーガールジュナの『中論』を所依の論としている.『中論』の冒頭には不生・不滅,不常・不断,不一・不異,不来・不去の八つの否定(八不)を通して二項対立を解体し,事物は相対的な関係にすぎない因縁を観ずることにより,とらわれのない正しい見方が得られるということが説かれ,縁起は八不の性格のもの*3であり,言語表現を越えたもの(戯論寂滅)であるとした.この思想は弟子のアーリヤデーヴァ(2〜3世紀)に受け継がれた.五世紀頃になるとブッダパーリタ(仏護,470-540頃)が現れて中観思想を盛んにした.この系統を継いだのがチャンドラキールティ*4(月称,650頃)である.そしてブッダパーリタの理論は他の立場の破折のみ*5である(帰謬派(中観派))と批判したのが論証式を用いたバーヴィヴェーカ(清弁,490-570頃)である(自立論証派*6*7.縁起による二項対立の否定(八不)から戯論(概念の遊戯)寂滅へと至る道を示したナーガールジュナによる『中論』以降,中観思想の中心課題は,真理の二重構造である二諦*8(真諦・勝義諦と俗諦・世俗諦)のあり方をめぐるものとなっていった.

唯識思想)

 中観思想の「空」の論理を受け継ぎ,世俗諦から勝義諦へと確かなる転換を図るために,より具体的な思想(ヨーガ(瞑想修行)実践を通して,外界に対する誤った認識を離れて唯識性を確立させる)として,瑜伽行唯識学派(アサンガ・無着,395-470頃)が確立され,ヴァスバンドゥ(400-480頃)により唯識思想が確立する*9(開祖はマイトレーヤ弥勒*10).唯識性とはわれわれの経験の世界は「識」のみである(ただ(唯),識(心)だけが世界に存在する=この世の中にあるすべてのものは心が創り出したものである)という意味である.外界の認識は外界そのもの(物理空間)ではなく認識されたもの(情報空間)である.知覚の手段である外界を認識する「識」は直接知覚(現量)の五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と正しい推論(比量)をする識(意識)*11の第六識とその背後に末那識(現象心,阿頼耶識を対象とする自我意識)と阿頼耶識(潜在心,経験の結果を保存している他の七識の生じる基体)の八識である(唯識的認識論).また,これらの識は転依し4種の仏智が体得されるとしている.① 阿頼耶識に対して「大円鏡智」(大きなくもりのない鏡のようにすべての事象をありのままに照し出す智).② 末那識に対して「平等性智」(すべての事象は平等であると知る智).③ 意識に対して「妙観察智」(すべての事象をありのままに観察する智).④ 前5識に対して「成所作智」(なすべきすべての事をなしとげ衆生を救済する智)*12.このようにわれわれの経験の世界は八つの識によるものであるから真偽が生じうる.この世における事象・存在のあり方について考察したものが三性説(唯識存在論)である.外界(諸法)を実在すると見るのが「遍計所執性」であり,実際はこの世の中にあるすべてのものは縁起により心が創り出したもの「依他起性」であり,唯識の修行により煩悩を除けば正しい認識が起こる.これが「円成実性」*13である.このように唯識思想は,中観思想の「空」の論理を受け継ぎながら,十二縁起のうちの「識」によって「空」を説明しようとする,世俗諦から勝義諦へと積極的に空性を主張,縁起の実践と空の実践を説いていると考えられる.なお,有相唯識*14派ナーランダ寺のダルマパーラ(護法,530-561)が著した『成唯識論*15玄奘三蔵法師,602-664)が漢訳し日本の法相宗に伝来した*16

 ナーガールジュナもアサンガも,空性をどのように理解すればいいのかという問題点を解決するために,独自の理論を立てたのであろう.前者は無自性で,後者は三性説で説明しているのである. 

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*1:諸法無自性.

*2:有も無も両方を包み込む概念,有や無よりも抽象度の高い概念.

*3:縁起によって生じるがゆえに一切法は空である,諸法は無我・無自性であることを八つの否定形の連続によって説いたもの.

*4:後代にチベットでは大きな評価を受ける.

*5:プラサンガ論法:諸実在論を否定していくことにより空性は論証されるという考え.

*6:言語の不完全さを認識した上でニ諦説に基づき論証する.

*7:チャンドラキールティ(月称,7世紀)が批判.

*8:ナーガールジュナ:「諸法の説法は二諦に依る」.

*9:その後,識の内にある形像(相分)を縁起するものと認める有相唯識派と識と形像の二分を認めず,形像を虚妄とする無相唯識派に.

*10:おそらく実在した人物ではない,権威づけのためにアサンガが設定したと思われる.

*11:二量(現量・比量):認識手段(pramana):視覚といった五感等,認識するための方法.後に有相唯識派の祖 Dignagaが詳しく定義する.

*12:密教では法界体性智(=大日如来の智恵)を加えて五智に発展する.

*13:悟りの境地は言語を超越するので,真如や法界という同義語により説明される.

*14:スティラマティの無相唯識との論争(心の中にある形象を有とするか無とするか)があったとされている.

*15:中国,日本における法相宗の教科書になる.

*16:聖徳太子の時代(飛鳥時代)に仏教は日本に本格導入された.

近世の日蓮教団の動向(不受不施,檀林,法華信仰・守護神仰)

 日蓮宗は,明治9年の「日蓮宗」という宗派名公称以前は,法華宗日蓮法華宗と呼ばれていた.

 日興が去ってから,身延の中心は日向,日朗,日昭は関東に広く普及し,特に日朗は池上本門寺を中心に勢力を拡大した.また日常は下総に拠点を構えた.日朗の流れを汲む日像は京都に教線を伸ばし京都二十一箇本山を中心に大きく発展した.
 しかし,その急速な発展は叡山などの反発を招き攻撃を受けた.近世に移行するなかで,権力に屈しない日蓮宗はさまざまな弾圧を受け続けた.織田信長日蓮宗と浄土宗両宗の僧を集め中立の高僧に判定人を依頼した上で法論を戦わせた(『安土宗論』,1579).日蓮宗の敗に終わる*1と,信長は日蓮宗側に他宗を誹謗中傷するような布教方法は一切禁じることを命じた.
 豊臣秀吉は,1595年(文禄4年)方広寺大仏殿千僧供養会のため,天台宗真言宗律宗禅宗,浄土宗,日蓮宗時宗一向宗に出仕を命じた.この時日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派と,出仕を拒み不受不施義の教義を守ろうとする不受不施派に分裂した.妙覚寺・日奥は出仕を拒否して妙覚寺(京都)を去っている.
 徳川家康は不受派の弾圧を続け,大坂城で日奥と日紹(受不施派)を対論(大阪対論,1599)させた.権力に屈しようとしない日奥*2対馬流罪にした.1608年,浄土宗の増上寺・廓山と妙満寺・日経との宗論(慶長宗論)で,両者を江戸城で対決させた.日経は,京都六条河原にて耳と鼻を削がれ酷刑に処された(慶長法難,1609年).不受不施派は非合法化された.こうして日蓮教団は,受派と不受派に分裂し,互いにその教義を主張し合うようになっていった.1616年日奥は赦免されて妙覚寺に戻った.
 1630年久遠寺・日暹(受不施派)は,池上本門寺・日樹(不受不施派)が久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え,江戸城にて両派が対論(身池対論)した.不受不施派側は敗訴し,流罪の刑に処せられた.

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*1:政治的策略と言われている.

*2:日奥,日親は日本の名僧に名を連ねる. 

反骨の導師 日親・日奥 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

日蓮聖人入滅後の門流の動向について

日蓮教団系譜図

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日蓮聖人入滅から中世の時代(初期門流の動向)

 日蓮入滅*1後の教団組織は身延山にある聖人の廟所(墓所)の五輪塔を中心に図られた.六老僧(日昭,日朗,日向,日興,日持,日頂)を中心とする直弟子たち(18名)が毎月輪番で廟所を守るため,身延山久遠寺番帳が定められた.
 しかし,弟子たちはそれぞれの地方で布教する信者たちの指導者であり,また幕府や諸宗団からの弾圧を受ける中,輪番の勤めは予定通りには実行されず,身延山近郊の甲州駿河を布教地点とする日興が在住し廟所を守った.続いて日向も登山し身延の運営にあたった.
 日興は純信・厳格に日蓮聖人の教えを固持したため,身延の地頭である南部実長との間に意見の対立を見るに至って身延を去った.日興離山後,日向が身延の住持となり経営・教化にあたった.
 結局身延輪番制は当初どおり実施されず,教団は各地に分立,それぞれがみずからの正当性を主張しながら発展していった.
身延門流
 日蓮聖人の墓所を守る身延山久遠寺は,教団の中心となる寺院として甲斐,駿河に勢力を伸ばした.
富士門流
 身延山を去った日興(1246-1333)は,駿河国上野(富士宮)に移り,地頭南条時光の援助を受け,北山本門寺大石寺を建立した.
日朗門流
 日朗(1245-1320)は,鎌倉の比企谷妙本寺を本拠地に,池上本門寺(聖人入滅後の聖地)の住持を兼ねた.

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四条門流
 日朗の弟子日像(1269-1342)は京都での伝道を遺言され,妙顕寺を建立,天皇勅願寺となる.妙顕寺の繁栄に対し,度々の法難(比叡山延暦寺の攻撃)を受ける.
中山門流
 日常(壇越富木常忍)は中山法華経寺を開創した.その後日高が住持となった.破門された日親は純粋な法華信仰を生涯貫いた*2
不受不施派
 「僧は法華信者以外から布施を受けず,信徒も法華僧以外に布施をしない」という不受不施義を貫いたもの(日奥1565-1630).

日奥 - Wikipedia

 江戸時代以来寺請が禁止されていたが,岡山や千葉では地下に潜行していた.日指派日正*3は幕末から再興運動を行い,明治9年公許されて岡山県金川妙覚寺を建立した.

日正 (不受不施派) - Wikipedia

 このように,門流は東国・西国*4に教線を伸長させた.その結果,都市・農村部の武士・農民・商工人が帰依し,京都では公家や各地の武家が帰依するに至った.

*1:弘安5年10月13日(1282年)辰の刻(AM8時頃)61歳.

*2:京都に本法寺を建立.

*3:昭和 4年に帝釈堂拝殿,大客殿, 昭和 9年に「法華経説話彫刻」を完成させた題経寺(柴又帝釈天)16世日済上人は日正の養嗣子.本法寺日運に師事.

*4:中国地方では,日像の弟子大覚妙実(1297-1364)が備前・備中・備後を布教し,備前法華の基礎を築く.

日蓮聖人の教え - 人間観

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 仏教の目指すものは,自己が自我を克服し悟りの境地「涅槃」を目指すものである.一方,聖人はまず社会,国家に目を向け,立正安国の答えを『法華経』に不退転の信仰をもって向かい合いそれを求めた*1.社会がよくなるためにはどうしたら良いか,そのために私たち人間はなにをすべきかという問に対する答えを聖人の遺文に求める.

十界互具と一念三千
 聖人は『開目抄』(人開顕の書1272年2月撰述)で人として学ばなければならない道を説いたものとして,当時日本に存在した儒教・インドの宗教や哲学・仏教をあげ宗教思想を比較し,仏教が優れた人道を説く教えであり,その中でも『法華経』が最も優れている(ただ法華経ばかり教主釈尊の正言なり.三世十方の諸仏の真言なり.)ことを説いた.天台の教学に基づく教判論(五時八教判)によって,『法華経』以外の仏教を爾前経*2(二乗作仏も久遠実成も説かれていない)と一括し,方便の教えと見るのである.そして根本真理を説いた『法華経』でもまた前半「迹門」(二乗作仏)と後半「本門」(久遠実成)に分けている*3
 『開目抄』の翌年,聖人は『観心本尊抄』(法開顕の書1273年4月撰述)を著した.
 本書は,天台智顗の著作『摩訶止観』の「一念三千」を説く箇所の引用から始まっている.われわれのこころに三千の世界があるとする「一念三千」の人間観とは,人間のこころは一瞬のうちに変化する三千という無限大の広がりをもっている.すなわち,こころは十界(十のこころの世界)に分けられ,どんな人でも地獄のような苦しみから仏の世界まで自分自身の内面に持っている.十界(六道・仏・菩薩・縁覚・声聞)のそれぞれが十界を具え*4 ,百界それぞれがありのままの姿(諸法実相)である十如是(要素:相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等)を具え*5 ,それぞれがまた三種世間(五蘊衆生・国土)を具えているというものである.私たちのこころがそのまま三千の世界*6なのである.したがって「私とはどのような存在なのか」はその三千を我が心に観ずる実践により答えを見出して行くことが出来るのである.
観心門(実践)について
 『観心本尊抄』は聖人独自の題目・本尊観(日蓮思想の核心)が展開されている. 聖人独自の教判である「四種三段」により,釈尊在世中は本法の正宗分(寿量,一品二半)*7の教説で悟りに至ったが,釈尊入滅後の末法の時代(釈尊の教えだけが存在する時代)となった今は,衆生を主な対象として「妙法蓮華経」の題目によって,仏となる種を植えられるとした.

末法の時代

永承7年(1052)仏滅後二千年.
1272年4月,聖人は塚原から一谷へ移される.ここで観心本尊抄(法開顕の書:釈尊が仏になるまでの修行と,仏になった功徳のすべてが題目に備わり,この題目こそ末法の正法→大曼荼羅を始顕)を執筆する(「文永八年太才辛未九月十二日、御勘気を蒙り佐渡国に遠流さる。同十年太才癸酉七月八日之れを図す。此の法華経の大曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年、一閻浮提之内、未だ之れ有らず。日蓮始めて之れを図す。」).そして流罪を許され鎌倉に戻ったのは1274年3月(53歳)である. 

  末法の時代には,すべての経典に説かれる釈尊の修行とさとりの世界は,「一念三千」を包み込んだ題目「南無妙法蓮華経」と唱えることによって正道となる.『法華経』のみが釈尊の正言でり,それはさらに「妙法蓮華経」という題目に集約されるというものである.
 釈尊の教えは,如来寿量品文底に説かれる観心門,「南無妙法蓮華経」の題目に極められたのである.

 五義について
聖人は,教相門(理論)と観心門(実践)の勝劣を述べる際に,時代の違い(現実社会)を基準にして,その究極を定めた.この教判を「五義」といい,教を機・時・国・序の4つの現実要因に基づいて弘めるための心得であると説いている.  

*1:一切経釈尊の教えとして読み切ったところに『法華経』の真実性が見えてくる.

*2:経には順番があるという意味.

*3:二乗作仏,久遠実成を『法華経』の中心思想と見るのは天台の伝統的な見方であり,聖人の独自性はない.

*4:十界互具.

*5:百界千如.

*6:天台智顗:心があれば三千の世界を具す.

*7:その余の一切の経教は衆生を導くための方便であると判じた.

大乗仏教思想

 「仏教学」とは,思想史(釈尊が説いた教えが,歴史においてどのように解釈されていったのか)に学ぶことである.紀元前後に起こった大乗仏教思想の基本的概念とその代表的経典を議論する.

 大乗仏教の特徴は,貨幣経済など時代の変化・要請に対して民衆の教化をしない,自利行のみの小乗(阿羅漢)仏教を批判した点にある*1

(仏に向かって歩む方便)
 小乗仏教においての目標は阿羅漢*2であり,大乗仏教においては仏*3である.小乗仏教は出家者が阿羅漢になることを目指した結果を第一に求めた仏教である.それに対して大乗仏教は仏に向かって一歩ずつ近づく方便(歩み・プロセス)そのものを大切に考える仏教である.
(菩薩の思想)
 菩薩とは仏になるための方便を行じている者である.仏の概念が時間的・空間的な多仏思想に発展し,さまざまな利他行をおこなう高い境地に達した菩薩*4が経典の案内人として登場した.仏になる資格を持ちながら,この世にとどまり衆生を救済する*5.菩薩であることが重要な意味をもつのである.
(菩薩行 六波羅蜜
 仏教教団は出家主義をとったためサンガの生活は布施*6によりなりたっていた.大乗仏教になると六波羅蜜の一項「布施波羅蜜」に取り入れられた.施しが真の布施になるためには「施す者の心が清浄であること」「なされる者の心が清浄であること」「施物が清浄であること」という三輪清浄(執着を離れた心)が説かれた.また,業のエネルギーを輪廻とは別の方向に向ける「廻向*7」が積極的に説かれた.
仏陀仏陀の身体とは)
 釈尊が説かれた自身の存在は,肉体としての存在(色身仏)と真理としての存在(法身仏)であり,崇拝の対象になるのは肉体を超越した永遠の真理である.色身仏である釈尊は入滅されたが法身仏である釈尊は時間と空間を超越して存在し続ける,大乗仏教仏陀観,真理仏の確立である.
 真理は永遠,普遍である.だとすると過去に真理を説いた仏陀が存在したに違いない「過去仏*8」の信仰と真理を説き続けるための「未来仏*9」の出現である.時間的仏陀が無限であれば次は空間的仏陀の無限,十方世界での無数の仏の存在である.東方の仏国土(浄土)には薬師如来浄瑠璃世界,阿閦仏の妙喜世界,西方の仏国土には阿弥陀如来の極楽浄土がある.
 薬師如来阿弥陀如来と釈迦仏との違いは,釈迦仏はすでに入滅された仏であるのに対し,今でも他の仏国土である浄瑠璃世界や極楽浄土で説法を行っている(今現在説法)「現在仏」であるという仏陀観である.それが真理である「法身*10」,歴史的世界に現れた釈尊である「応身仏*11」,薬師如来阿弥陀如来などの理想仏である「報身仏*12」の三身説へと発展した.
 「般若経」は大乗仏教の先駆の経典である.六波羅蜜を廻向へと向かう菩薩行と定め,釈迦の教えである因果則,輪廻を生み出す業のエネルギーを消し涅槃(智慧の完成)を実現するための出家と修行から日常の善行により涅槃を実現するための「空」の思想が確立された.その後成立した代表的な大乗経典である「維摩経」は「空」の思想が説かれている.「法華経」は前半で小乗仏教大乗仏教もすべて釈尊の説かれた一仏乗に包摂される(悟りの可能性を授記する)とする.後半では,仏はすでに久遠の昔に成仏しており, 永遠の過去から永遠の未来にわたり衆生を救済し続けるとする.
 「浄土三部経」は,空間的仏陀に目を向け,人々の救済のため四十八の誓願を立て長い修行をした*13極楽浄土の教主である阿弥陀仏と極楽浄土への往生と修行を説いている.
 「華厳経*14」はこの全宇宙が毘盧遮那仏の顕現であると説き,毘盧遮那仏は宇宙に遍満する智慧の光とされ,それが悟りの本質であるとする*15
 「涅槃経」は釈尊が入滅の直前に説かれた教えとされる経典*16である.いっさいの衆生に仏性*17(仏になれる本性)がある*18としている.
 「勝鬘経」は大乗仏教の在家中心主義を示す*19経典である.

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*1:大乗vs小乗の構図は後の時代に作られたものか?

*2:仏になるという発想自体思いもよらない傲慢なものであり,仏と重なるのは,解脱を達成して涅槃の境地という点のみ.(初期仏典には「複数の仏」の表現が出てくる.「buddha」の意味は「目覚めた」であるので,最初は修行への道に「目覚めた」そして釈尊と一緒に修行をしていた者から,釈尊入滅後は「悟りを獲得した者」の意味に変わる.)

*3:実際には阿羅漢は仏「十号」の一つ.「仏になる=悟りを得る=解脱する」は,大乗も小乗も同じ目標であったであろう.

*4:観世音菩薩,文殊菩薩弥勒菩薩地蔵菩薩普賢菩薩など.

*5:仏になったら来世はないので菩薩が設定されたのであろう.

*6:布施には事物への執着を捨てる意味がある.

*7:自分の獲得した資糧を他者に回すこと.

*8:毘婆尸,尸棄,毘舎浮,拘留孫,拘那含牟尼,迦葉,釈迦(過去七仏)ただし大乗仏教以前にも過去仏は説かれている.

*9:弥勒菩薩

*10:無始無終,毘盧遮那仏大日如来

*11:有始有終.

*12:有始無終.

*13:法蔵菩薩

*14:もともとは別なる経典がまとめられたもの.核は「八法界品」.

*15:中国華厳宗的理解.

*16:実際には後期大乗経典.

*17:常楽我浄.

*18:一切衆生悉有仏性.

*19:如来蔵思想(仏性思想).