日蓮聖人入滅後の門流の動向について
日蓮教団系譜図
日蓮聖人入滅から中世の時代(初期門流の動向)
日蓮入滅*1後の教団組織は身延山にある聖人の廟所(墓所)の五輪塔を中心に図られた.六老僧(日昭,日朗,日向,日興,日持,日頂)を中心とする直弟子たち(18名)が毎月輪番で廟所を守るため,身延山久遠寺番帳が定められた.
しかし,弟子たちはそれぞれの地方で布教する信者たちの指導者であり,また幕府や諸宗団からの弾圧を受ける中,輪番の勤めは予定通りには実行されず,身延山近郊の甲州・駿河を布教地点とする日興が在住し廟所を守った.続いて日向も登山し身延の運営にあたった.
日興は純信・厳格に日蓮聖人の教えを固持したため,身延の地頭である南部実長との間に意見の対立を見るに至って身延を去った.日興離山後,日向が身延の住持となり経営・教化にあたった.
結局身延輪番制は当初どおり実施されず,教団は各地に分立,それぞれがみずからの正当性を主張しながら発展していった.
(身延門流)
日蓮聖人の墓所を守る身延山久遠寺は,教団の中心となる寺院として甲斐,駿河に勢力を伸ばした.
(富士門流)
身延山を去った日興(1246-1333)は,駿河国上野(富士宮)に移り,地頭南条時光の援助を受け,北山本門寺と大石寺を建立した.
(日朗門流)
日朗(1245-1320)は,鎌倉の比企谷妙本寺を本拠地に,池上本門寺(聖人入滅後の聖地)の住持を兼ねた.
(四条門流)
日朗の弟子日像(1269-1342)は京都での伝道を遺言され,妙顕寺を建立,天皇の勅願寺となる.妙顕寺の繁栄に対し,度々の法難(比叡山延暦寺の攻撃)を受ける.
(中山門流)
日常(壇越富木常忍)は中山法華経寺を開創した.その後日高が住持となった.破門された日親は純粋な法華信仰を生涯貫いた*2.
(不受不施派)
「僧は法華信者以外から布施を受けず,信徒も法華僧以外に布施をしない」という不受不施義を貫いたもの(日奥1565-1630).
江戸時代以来寺請が禁止されていたが,岡山や千葉では地下に潜行していた.日指派日正*3は幕末から再興運動を行い,明治9年公許されて岡山県金川に妙覚寺を建立した.
このように,門流は東国・西国*4に教線を伸長させた.その結果,都市・農村部の武士・農民・商工人が帰依し,京都では公家や各地の武家が帰依するに至った.