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日蓮教団の京都進出について

日蓮宗の京都進出と妙覚寺法式・寛正の盟約にみられる不受不施思想の特徴について

  日蓮宗は,明治9年の「日蓮宗」という宗派名公称以前は,法華宗日蓮法華宗*1と呼ばれていた.
 日興が身延の地を去って(1288)から,身延の中心は日向,日朗,日昭は関東に広く普及し,特に日朗は池上本門寺を中心に勢力を拡大した.また日常は下総に拠点を構えた.京都への進出は,聖人から京都弘通を委嘱された日朗の流れを汲む日像によって開始された.妙顕寺天皇勅願寺1334)となり又,日朗門流日静建立の本国寺も公家・武家の帰依を得て勢力を伸ばし,後に勅願寺の綸旨を賜った.
 一方で妙顕寺四条門流)から分かれた日実・日成は妙覚寺妙覚寺門流)を建立,妙顕寺・本国寺*2(六条門流)の穏健・寛容な布教姿勢(摂受)に対して,強義折伏と謗法の堂社や僧侶等の不受不施の姿勢を法度(妙覚寺*3法式1413)を定めることにより推し進めた.中山門流においても,日什が独立し日什門流妙満寺派)を形成した.さらに妙顕寺の日隆も妙顕寺から袂を分け,日隆門流を形成,本迹勝劣を主張,日真も妙顕寺を出て日真門流を形成した(その他下図の通り).
 こうした門流の分立,門流間の対立が激しく一方で延暦寺の圧力がある中,折伏弘通と不受不施を推し進めるための門流の一致団結が図られた*4(寛正の盟約1466).これが,その後の日蓮教団発展の礎えとなった.

永禄の規約の大意と背景

 町衆の支援を受けた日蓮宗は,京都二十一箇本山*5を中心に大きく発展した.室町時代には商工業の発達により経済発展を遂げた町衆が檀信徒となって大いに繁栄し隆盛を誇ったが,天文5年(1536)に比叡山との対立から発生*6した天文法難により全ての法華宗寺院が焼かれ宗徒は洛外に追放された.京都において日蓮宗は一時禁教となるが,天文11年(1542)に勅許が下りて京都帰還が許され,後に十五本山が再建されているが,教義の違いなどで必ずしも一枚岩ではなかった*7
 永禄7年(1564),京都日蓮宗諸本山の合意のもと,一致派と勝劣派の融和をはかり,教団の立て直しを目指し,「永禄の規約」が締結された.

 近世に移行するなかで,権力に屈しない日蓮宗*8はさまざまな弾圧を受け続けた.織田信長日蓮宗と浄土宗両宗の僧を集め中立の高僧に判定人を依頼した上で法論を戦わせた(『安土宗論』,1579).日蓮宗の敗に終わると,信長は日蓮宗側に他宗を誹謗中傷するような布教方法は一切禁じることを命じた.
 豊臣秀吉は,1595年(文禄4年)方広寺大仏殿千僧供養会のため,天台宗真言宗律宗禅宗,浄土宗,日蓮宗時宗一向宗に出仕を命じた.この時日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派(多数の僧侶)と,出仕を拒み不受不施義の教義を守ろうとする不受不施派に分裂した.妙覚寺・日奥は出仕を拒否して妙覚寺(京都)を去っている.
 徳川家康は不受派の弾圧を続け,大坂城で日奥と日紹(受不施派)を対論(大阪対論,1599)させた.権力に屈しようとしない日奥を対馬流罪にした.1608年,浄土宗の増上寺・廓山と妙満寺・日経との宗論(慶長宗論)で,両者を江戸城で対決させた.日経は,京都六条河原にて耳と鼻を削がれ酷刑に処された(慶長法難,1609年).不受不施派は非合法化された.こうして日蓮教団は,受派と不受派に分裂し,互いにその教義を主張し合うようになっていった.1616年日奥は赦免されて妙覚寺に戻った.
 1630年久遠寺・日暹(受不施派)は,池上本門寺・日樹(不受不施派)が久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え,江戸城にて両派が対論(身池対論)した.不受不施派側は敗訴し,流罪の刑に処せられた.不受不施派は江戸時代以来寺請が禁止されていたが,岡山や千葉では地下に潜行していた.日正は幕末から再興運動を行い,明治9年公許されて岡山県金川妙覚寺を建立した.

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妙覚寺法式」応永二十年(1413)
 妙覚寺門流日成は強義折伏・不受不施などの一門の法度を定めた.

法華宗真俗異体同心法度の事
一、謗法の堂社に於いては参詣を致すべからざる事。但し見物遊覧公役等を除く
一、謗法の僧侶等に於いては供養を成すべからざる事。但し世間仁義愛礼等を除く
一、たとえ誘引の方便たりと雖(いえど)も、直ちに謗法供養を受くべからざる事。
一、檀越となって社参物詣を致し謗法供養を成す輩は堅くこれを呵責(かしゃく)せしむべし、もし再三に及び猶(なほ)これを信用せずんば大小をえらばず親疎(しんそ)をえらばずこれを捨つべき事。
一、たとえその夫信者たりと雖(いえど)もその妻受持せずんば三箇年の間は、その小師(こじ)間断(かんだん)なく教誡を加うべし、なお以て信順の儀無くんば、夫婦共にこれを捨つべき事。
一、僧俗共に不信謗法の振る舞いあらん時、これを見聞しながら寺家へ披露致さずんば、同罪たるべき事。
一、当寺の法式に於いてもし不審の儀あらば、幾たびたりと雖(いえど)も存分をのべ決断を遂げて捨邪帰正(しゃじゃきしょう)を用い、その様子に従ってこれを弘通すべし、もしその已前己情の新義を構える輩は、仏法の重科をなすべき事。
一、檀那謗法の業治定の後その小師としてこれを捨つる時は自余の僧衆としてはそのもとに出入すべからざる事。但し自余の所用等を除く
一、謗法の投げ銭に於いては衆僧一同これを捨つべき事。
妙覚寺住持 日成(他二名略)

「寛正の盟約」寛政七年(1466)
一致和睦六箇条
一、高祖(日蓮聖人)の所立、本迹一体の事。但し機情昇進等勝劣あり
一、異体同心の志をもって、折伏弘通なすべき事。
一、謗法の寺社に於いて、物詣を致すべからざる、相互を堅くするを禁ずる事。
一、謗法者の供養を受けるべからざる事。但し世間仁義愛礼を除く
一、法理に就いて強弱の両篇ありと雖(いえど)も、強義をもって正事をなすべき事。
一、真俗の輩初発心の各寺に背を向けるべからず、然るに余寺相互に許容すべからざる事。
但し談合を遂げ事相互に依れば許容すべし
右諸門流契約状、如件
(京都諸山代表列名省略)

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*1:例:身延山久遠寺は「法華宗久遠寺派」.

*2:江戸時代以降本圀寺となる.

*3:不受不施の中心寺院,日興上人・歴代住持.

*4:長続きはしなかった.

*5:21本山から16本山(日蓮宗系8・法華宗系7・他1再興されず)に減.

*6:松本問答.

*7:日蓮教団の特徴.

*8:宗派としての特徴.