水色の写真館

暮らしの雑文

天台の教え (八教)

 天台大師は釈尊の説法を五時八教によって判釈した.この中で説法の形式・仕方を分類したものを化儀の四教(頓(とん)・漸(ぜん)・秘密(ひみつ)・不定(ふじょう))といい,内容・教理の面を分類したものを化法の四教(蔵(ぞう)・通(つう)・別(べつ)・円(えん))という.これらはよく薬の調合の仕方・処方(化儀)と薬味・効用(化法)に喩えられる.

化儀の四教
 釈尊は真理を頓(ただ)ちに説き示したり(頓*1),浅い所から深い所へと漸次(ぜんじ)に説いたり(漸*2),また同じ法座にいながら聴く者の能力によって説法の内容が異なって聞こえる,利益が異なる(同聴異聞)というような場合,他の誰がどのような説法を聞いているのかわからないようにして個々に対して法を説き(説座を異にしてして説く方法)衆生それぞれに別々の利益を生ぜしめる秘密不定教(秘密*3)を説いたり,不定教(ふじょうきょう)(不定*4)を用いたり(同じ一座であってもその中で聴衆一人一人に応じて説く方法)した.五時の法華涅槃時には通じていない.

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化法の四教
「化法の四教」は三蔵教・通教・別教・円教で,端的に言えば,三蔵の教えは小乗の教えで,通教は三乗通学の(声聞・縁覚・菩薩に共通した大乗初段階の)教えである.別教は菩薩への教えであり円教は同じ菩薩への教えであるが円融相即・無礙が根幹であり,最高完全なる教えで別教と区別される.

(蔵教 – 小乗の教え)
蔵教は現象界を明らかにする.

蔵教とは三蔵教の略称で,三蔵とは経(経典)・律(戒律)・論(解説)をいう.小乗教を指している.蔵教は声聞・縁覚の二乗を正機とし,菩薩を傍機として説かれた教えである.その教義は,声聞には生滅の四諦*5,縁覚には十二因縁,菩薩には六度六波羅蜜)と別々の機根に応じ修行させようとするものである.この世(二十五有*6・六道*7(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)・三界*8(欲界*9・色界*10・無色界*11))は生死の苦に束縛されていて(苦諦),この世の苦の原因は(前世における)誤った見解・煩悩(見思惑 )と,そこからもたらされる業(行い)の報い(業因)によるものであるとし(集諦),この誤った見解・煩悩を断ずるためには空理を悟るべきことを説いている(滅諦).
 蔵教の空理観は一切の事物を構成要素に分析していき,それらは因縁が尽きれば滅して空になると観る「析空観(しゃくくうかん)*12」を説いている.見思惑という誤った見解・煩悩と業を断尽し(道諦*13),再び二十五有六道三界の苦界に生を受けることがなくなるということを蔵教の悟り(涅槃)としている.これらの誤った見解・煩悩は,肉体があるかぎり心を惑わすものであるから,身を灰にし心智を滅失することによって,はじめて真の涅槃に入ることができるとされている(無余涅槃*14).
 蔵教の教えは目に見える世界に限られている,有為*15の現象界のなかで生滅をみようとする真理である.

 見惑(理論的な迷い)を三界(欲界・色界・無色界 )に分ける.また各三界をそれぞれ四諦に分ける.見惑(五見・五煩悩)は,三(界)×四(諦)で十二に分けられ,これら十二を見惑の五煩悩のうち幾つかで分ける.また,五見のうち幾つかで分ける.合わせて欲界32・色界28・無色界28の八十八となる(八十八使).
 思惑(実践的習慣的迷い)も三界と思惑の四惑(貪・瞋・癡・慢)のうち幾つかで分ける.分け方は欲界(貪・瞋・癡・慢),色界(貪・癡・慢),無色界(貪・癡・慢)合わせて十となる.こういった分類の仕方で八十一品となる.

(通教 – 小乗から大乗に転進させるための教え)
通教は空観を明らかにする.

 通教は,蔵教では傍機であった菩薩を正機とし,声聞・縁覚を傍機として説いた権大乗の教えである.通教の通とは,前の蔵教に通同し,後の別教と円教にも通じるという意味である.通教では声聞・縁覚・菩薩の三乗共に共通の修行である.
 通教では三界の諸法は,諸法がそのままで空であると観ずる観法「体空観*16」を説いている.蔵教では三界のすべての存在を肯定し,それを空と観ずるために析空観を用いるが,通教では三界六道の苦界を滅するために,始めからすべての存在を否定し,現象界のすべては妄想から生じる幻影であるとするために体空観を用いる.『般若心経』がこの通教を代表する.

(別教)
別教は真如と無明を明らかにする.

 別教は,菩薩のみに説かれる(大乗に特有・特別の)教えで,前の蔵・通二教や後の円教とも異なることからその名がある.前の二教が空理のみを説くのに対し,広く空・仮・中の三諦を明かす.空理とは,あらゆる存在には固定した実体がないこと「空諦」をいい,「仮諦」とは,あらゆる存在は因縁によって仮りにその姿が現れていることをいい,「中諦」とは,あらゆる存在は空でもなく仮でもなく,しかも空であり仮でもあるという,空・仮の2辺(二項対立)を超越したところをいい,真実があるとする.
 別教で説かれる空・仮・中の三諦は互いに融合することなくそれぞれが隔たっていることから「隔歴(きゃくりゃく)の三諦」といわれ,一切の事物について差別のみが説かれて融和が説かれていない.ここで説かれる中諦は,空・仮の2辺を離れた単なる中道であるため,これを「但中(たんちゅう)の理」という.また別教では,蔵・通二教で説かれた三界(界内の中の生死輪廻)の外(界外),現象を超越いたところにも迷いが有るとして真如*17(普遍的真理)と無明(最も根本的な煩悩)を説く.六道のほかに,四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)を含む十界すべての因果を明かしているが,それぞれの境界は隔別している.
 このように別教は,三諦円融の義もなく、十界の融通・互具の義もない教えなのである.代表的なものとして,『華厳経』があげられる.

(円教)
円教は,円融,円妙・円満・円足・円頓の教えという意味である.
 空・仮・中の三諦は孤立することなく,一諦の中にそれぞれ三諦をそなえて,円融相即の一心三観である.ここで説かれる中道は別教の「但中」に対し「不但中」という.
 また,円教においては十界互具が説かれ、九界の生命も仏界に具足し,仏界の生命もまた九界の衆生に具有することが明かされている.三諦円融・十界互具の法門は,法華経が説かれてはじめて真実のものとなり,天台大師はこの法華経によって理の一念三千の法門を示した.
 この円教に最もかなうものとして『法華経』があげられる.宇宙法界の一切が円満に融合した当体であることを明かし,理想と現実の相即した総合的な教えであるからである. 

五時判と八教判の関係図

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*1:華厳経の説法がそれにあたるとされる.

*2:小乗から大乗にかけての説法.

*3:得るところの功徳は不定:諸教

*4:それぞれにその機根に応じた(同聴異聞)功徳・利益を得せしめる方法:諸教

*5:諸法は因縁和合によって現じたとし,諸法を実有の如く取り扱う原理の上に四諦を説く.通教:無性の四諦,別教:無量の四諦,円教:無作の四諦

*6:有:存在

*7:衆生自らが作った業により生死を繰り返す六つの世界.

*8:有情(生きているもののこと.)が住んでいる器世間を区別.

*9:欲望(色欲・貪欲・財欲など)にとらわれた生物が住む世界.

*10:欲望を離れた清浄な物質の世界.

*11:欲望も物質的条件も超越し,ただ精神作用にのみ住む世界.

*12:析とは分析のことであり,諸法は生滅無常の事物であることを,先ず諸法を一々分析した後に空を観ずる観法.

*13:煩悩・業を滅するために修する戒・定・慧の三学.

*14:肉体をなくした悟りの状態,この世に生存している間に得られる涅槃は肉体が有るので有余涅槃という.

*15:さまざまな因果関係・因縁のうえに存立する現象.

*16:すべてのものは因縁によってあらわれているが,それは仮体であり,有るようで実は空であると観ずる観法.

*17:釈尊が観察して発見した真理・普遍的真理・ありのままのすがた.

身延山における守塔輪番制について

 日蓮聖人入滅(弘安五年十月・1282)後の教団組織は身延山にある聖人の廟所(墓所)の五輪塔を中心に図られた.六老僧(日昭,日朗,日向,日興,日頂,日持)を中心とする直弟子たち(18名)が毎月輪番で廟所を守るため,身延山久遠寺番帳が定められた(弘安六年正月・1283).
 しかし,弟子たちはそれぞれの地方で布教する信者たちの指導者であり(交通事情),また幕府や諸宗団からの弾圧を受ける中,輪番の勤めは予定通りには実行されず,当初(弘安七年・1284)は身延山近郊の甲州駿河を布教地点とする日興の門流*が在住し廟所を守った.続いて日向も登山し身延の運営(学頭職)にあたった.
 日興は純信・厳格に日蓮聖人の教えを固持したため,身延の地頭(領主)である南部実長との間に意見(身延輪番,謗法)の対立を見るに至って身延を去った.日興離山後,日向が身延の住持となり経営・教化にあたった.
 結局身延輪番制は当初どおり実施されず,教団は各地に分立,それぞれがみずからの正当性を主張しながら発展していった.
 日興が去ってから,身延の中心は日向,日朗・日昭は関東に広く普及し,特に日朗は池上本門寺を中心に勢力を拡大した.また日常は下総に拠点を構えた.
 しかし,教線は東国が中心であり,全国的には及ばなかった.

身延門流
 日蓮聖人の墓所を守る身延山久遠寺は,教団の中心となる寺院として甲斐,駿河に勢力を伸ばした.
富士門流
 身延山を去った日興(1246-1333)は,駿河国上野(富士宮)に移り,地頭南条時光の援助を受け,北山本門寺大石寺を建立した.
日朗門流
 日朗(1245-1320)は,鎌倉の比企谷妙本寺を本拠地に,池上本門寺(聖人入滅後の聖地)の住持を兼ねた.

noginogikun.hatenablog.com

中山門流
 日常(壇越富木常忍)は中山法華経寺を開創した.その後日高が住持となった.破門された日親*は純粋な法華信仰を生涯貫いた(京都に本法寺を建立).

その後日朗の流れを汲む日像は京都に教線を伸ばし京都二十一箇本山を中心に大きく発展した.

日蓮教団の京都進出について - 水色の写真館
四条門流
 日朗の弟子日像(1269-1342)は京都での伝道を遺言され,妙顕寺を建立,天皇勅願寺となる.妙顕寺の繁栄に対し,度々の法難(比叡山延暦寺の攻撃)を受ける.
不受不施派
 「僧は法華信者以外から布施を受けず,信徒も法華僧以外に布施をしない」という不受不施義を貫いたもの(日奥* 1565-1630).

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*日親,日奥は日本の名僧に名を連ねる.

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資料(漢文)講読,書き下し

(資料購読)「日朗*門流起請文」元応二年(1320)京都妙顕寺所蔵

本門寺日朗聖人御遷化之後、為其御門弟法門弘通意趣一、本所遺跡、可一味同心、自今以後、若於一人法門不審者、衆徒令一同相互令論説落居之後、可通其意趣者也、仍雖尽未来際、妙法弘通為断絶、令連書之状也、若於背此旨趣者、法華経中之三宝並大聖人、朗聖人御罰其身可罷蒙者也、仍誡之状、如件
  元応二年太歳庚申三月二日     

        (省略)(花押) 

此外護中臈・若輩不勝計、不及委細註

池上本門寺日朗聖人御遷化の後,われわれ師弟は法門布教の考えをなし,本所遺跡を守り,心を一つになすべく,今から後,もし一人でも法門が疑わしきことあらば,衆徒は一同に,相互に論説落居せしむ後,その考えの普及をすべきこと,なお未来の果てに至るといえども,断絶することなく妙法弘通をなす.この状を連署せしむ,もしこの趣旨に背くようなことあらば,法華経中の三宝(仏法僧)並びに大聖人,日朗聖人により,その身に御罰を受けるべし,それゆえ戒めの状,件の如し」

「さらに中位に位する者・若輩をまもり,勝計すべからず,委細補足説明に及ばず」

*日朗は文保2年(1318)に比企谷妙本寺(鎌倉市)と池上本門寺を日輪に譲った.日朗は元応2年(1320)七六歳にて示寂し,六七日忌にあたる3月2日にその弟子らは起請文を連署した.すなわち,池上本門寺日蓮が歿した地であり,かつ遺骸を荼毘にふした場所であったことから,弟子たちにとってここは本所遺跡としての性格を持っていた.弟子たちは,師匠の寺院や教義を守り続けた.

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【漢文】 

 漢文とは:古代中国人(一般に清代以前の中国人)が漢字を用いて書いた文章や詩.
      ※ 漢字のみの表記(白文)
      ※ 基本の語順
      (主語)(述語)(目的語・ヲニト)

 日本では:白文に,訓点(句読点,返り点,送り仮名)→訓読文
       ※ 送り仮名(歴史的仮名遣い,カタカナ表記,漢字の右下)

書き下し文:漢文を,返り点と送り仮名に従って書き下したもの
       ※ 助詞・助動詞,置き字,再読文字に注意
 (1)書き下し文は,漢字とひらがなで書く
 (2)助詞・助動詞は書き下し文に漢字で書かない
    助詞の例:の・か・や・より・と・かな・は・のみ
   助動詞の例:ず・しむ・る・らる・なり・べし・ごとし
 (3)置き字は書き下し文に書かない
・書き下し文発展法則
  ★ 再読文字の2回目の読みはひらがなで書く

・返り点(漢字の左下)
  基本は上から下へ読む(返り点がない文字を読む),返り点がある場合は下から上へ読む.(基本 ↓方向に順番をつける.)
  レ点:一文字で返る時(下の一文字から上の一文字に返って読む)
 一二点:それ以外返る時(一まで行ってから二へもどる)
     ※ 二字またはそれ以上へだてて返って読む
     ※ 二つ以上「一二点」がある場合は,セットを作って考える
 上下点:一二点を間に挟んで返る時

・返り点(漢字の左下)の発展法則
 (1)一点とレ点,上点とレ点の組み合わせ
     ※ 先にレ点に従って読み,次に一二点や上下点にうつる
 (2)二字熟語(「- ハイフン」で繋がった単語)に帰る時は二文字の間に返り点を付ける

・置き字(而・於・乎・于・矣・焉・也・兮)
 前置詞・終尾詞・接続詞
 順序をつけない漢字,読まない 

・再読文字(未・将・且・当・応・宜・須・猶・盍) 
 未:いまだ〜ず(読み方)
   いまだ 未然形 + ず

 将:まさに〜んとす
 且: 同上
   まさに 未然形 + んとす

 当:まさに〜べし
 応: 同上
   まさに (基本的に)終止形 + べし 例外(ラ変連体形)

 須:すべからく〜べし
   すべからく (基本的に)終止形 + べし

宜:よろしく〜べし
   よろしく (基本的に)終止形 + べし

 猶:なほ〜(の)ごとし
   名詞+の
   動詞(連体形)+が

 盍:なんぞ〜ざる
   なんぞ 未然形 + ざる

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中観思想,唯識思想

 大乗仏教釈尊が説いた縁起の教えを「空」の理論に精緻化していく.すべては変化し続ける(無常),不変の実体はない(無我),すべては連続性・関係性の中で成立(縁起)している,すべての存在は要素の集合体に過ぎないととらえる.大乗仏教の先駆の経典である「般若経」において提示された「空」は,その後ナーガールジュナ(龍樹,2〜3世紀)が著した『中論』などに基づき理論が体系化されていく.

(中観思想)

 中観思想は,あらゆる存在(諸法)は有無や常断などの二極端を離れて,実体性を欠いている無自性(空性)である*1ことを説く.これは釈尊の縁起説を「空」*2という概念で説明したナーガールジュナの『中論』を所依の論としている.『中論』の冒頭には不生・不滅,不常・不断,不一・不異,不来・不去の八つの否定(八不)を通して二項対立を解体し,事物は相対的な関係にすぎない因縁を観ずることにより,とらわれのない正しい見方が得られるということが説かれ,縁起は八不の性格のもの*3であり,言語表現を越えたもの(戯論寂滅)であるとした.この思想は弟子のアーリヤデーヴァ(2〜3世紀)に受け継がれた.五世紀頃になるとブッダパーリタ(仏護,470-540頃)が現れて中観思想を盛んにした.この系統を継いだのがチャンドラキールティ*4(月称,650頃)である.そしてブッダパーリタの理論は他の立場の破折のみ*5である(帰謬派(中観派))と批判したのが論証式を用いたバーヴィヴェーカ(清弁,490-570頃)である(自立論証派*6*7.縁起による二項対立の否定(八不)から戯論(概念の遊戯)寂滅へと至る道を示したナーガールジュナによる『中論』以降,中観思想の中心課題は,真理の二重構造である二諦*8(真諦・勝義諦と俗諦・世俗諦)のあり方をめぐるものとなっていった.

唯識思想)

 中観思想の「空」の論理を受け継ぎ,世俗諦から勝義諦へと確かなる転換を図るために,より具体的な思想(ヨーガ(瞑想修行)実践を通して,外界に対する誤った認識を離れて唯識性を確立させる)として,瑜伽行唯識学派(アサンガ・無着,395-470頃)が確立され,ヴァスバンドゥ(400-480頃)により唯識思想が確立する*9(開祖はマイトレーヤ弥勒*10).唯識性とはわれわれの経験の世界は「識」のみである(ただ(唯),識(心)だけが世界に存在する=この世の中にあるすべてのものは心が創り出したものである)という意味である.外界の認識は外界そのもの(物理空間)ではなく認識されたもの(情報空間)である.知覚の手段である外界を認識する「識」は直接知覚(現量)の五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と正しい推論(比量)をする識(意識)*11の第六識とその背後に末那識(現象心,阿頼耶識を対象とする自我意識)と阿頼耶識(潜在心,経験の結果を保存している他の七識の生じる基体)の八識である(唯識的認識論).また,これらの識は転依し4種の仏智が体得されるとしている.① 阿頼耶識に対して「大円鏡智」(大きなくもりのない鏡のようにすべての事象をありのままに照し出す智).② 末那識に対して「平等性智」(すべての事象は平等であると知る智).③ 意識に対して「妙観察智」(すべての事象をありのままに観察する智).④ 前5識に対して「成所作智」(なすべきすべての事をなしとげ衆生を救済する智)*12.このようにわれわれの経験の世界は八つの識によるものであるから真偽が生じうる.この世における事象・存在のあり方について考察したものが三性説(唯識存在論)である.外界(諸法)を実在すると見るのが「遍計所執性」であり,実際はこの世の中にあるすべてのものは縁起により心が創り出したもの「依他起性」であり,唯識の修行により煩悩を除けば正しい認識が起こる.これが「円成実性」*13である.このように唯識思想は,中観思想の「空」の論理を受け継ぎながら,十二縁起のうちの「識」によって「空」を説明しようとする,世俗諦から勝義諦へと積極的に空性を主張,縁起の実践と空の実践を説いていると考えられる.なお,有相唯識*14派ナーランダ寺のダルマパーラ(護法,530-561)が著した『成唯識論*15玄奘三蔵法師,602-664)が漢訳し日本の法相宗に伝来した*16

 ナーガールジュナもアサンガも,空性をどのように理解すればいいのかという問題点を解決するために,独自の理論を立てたのであろう.前者は無自性で,後者は三性説で説明しているのである. 

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*1:諸法無自性.

*2:有も無も両方を包み込む概念,有や無よりも抽象度の高い概念.

*3:縁起によって生じるがゆえに一切法は空である,諸法は無我・無自性であることを八つの否定形の連続によって説いたもの.

*4:後代にチベットでは大きな評価を受ける.

*5:プラサンガ論法:諸実在論を否定していくことにより空性は論証されるという考え.

*6:言語の不完全さを認識した上でニ諦説に基づき論証する.

*7:チャンドラキールティ(月称,7世紀)が批判.

*8:ナーガールジュナ:「諸法の説法は二諦に依る」.

*9:その後,識の内にある形像(相分)を縁起するものと認める有相唯識派と識と形像の二分を認めず,形像を虚妄とする無相唯識派に.

*10:おそらく実在した人物ではない,権威づけのためにアサンガが設定したと思われる.

*11:二量(現量・比量):認識手段(pramana):視覚といった五感等,認識するための方法.後に有相唯識派の祖 Dignagaが詳しく定義する.

*12:密教では法界体性智(=大日如来の智恵)を加えて五智に発展する.

*13:悟りの境地は言語を超越するので,真如や法界という同義語により説明される.

*14:スティラマティの無相唯識との論争(心の中にある形象を有とするか無とするか)があったとされている.

*15:中国,日本における法相宗の教科書になる.

*16:聖徳太子の時代(飛鳥時代)に仏教は日本に本格導入された.

近世の日蓮教団の動向(不受不施,檀林,法華信仰・守護神仰)

 日蓮宗は,明治9年の「日蓮宗」という宗派名公称以前は,法華宗日蓮法華宗と呼ばれていた.

 日興が去ってから,身延の中心は日向,日朗,日昭は関東に広く普及し,特に日朗は池上本門寺を中心に勢力を拡大した.また日常は下総に拠点を構えた.日朗の流れを汲む日像は京都に教線を伸ばし京都二十一箇本山を中心に大きく発展した.
 しかし,その急速な発展は叡山などの反発を招き攻撃を受けた.近世に移行するなかで,権力に屈しない日蓮宗はさまざまな弾圧を受け続けた.織田信長日蓮宗と浄土宗両宗の僧を集め中立の高僧に判定人を依頼した上で法論を戦わせた(『安土宗論』,1579).日蓮宗の敗に終わる*1と,信長は日蓮宗側に他宗を誹謗中傷するような布教方法は一切禁じることを命じた.
 豊臣秀吉は,1595年(文禄4年)方広寺大仏殿千僧供養会のため,天台宗真言宗律宗禅宗,浄土宗,日蓮宗時宗一向宗に出仕を命じた.この時日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派と,出仕を拒み不受不施義の教義を守ろうとする不受不施派に分裂した.妙覚寺・日奥は出仕を拒否して妙覚寺(京都)を去っている.
 徳川家康は不受派の弾圧を続け,大坂城で日奥と日紹(受不施派)を対論(大阪対論,1599)させた.権力に屈しようとしない日奥*2対馬流罪にした.1608年,浄土宗の増上寺・廓山と妙満寺・日経との宗論(慶長宗論)で,両者を江戸城で対決させた.日経は,京都六条河原にて耳と鼻を削がれ酷刑に処された(慶長法難,1609年).不受不施派は非合法化された.こうして日蓮教団は,受派と不受派に分裂し,互いにその教義を主張し合うようになっていった.1616年日奥は赦免されて妙覚寺に戻った.
 1630年久遠寺・日暹(受不施派)は,池上本門寺・日樹(不受不施派)が久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え,江戸城にて両派が対論(身池対論)した.不受不施派側は敗訴し,流罪の刑に処せられた.

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*1:政治的策略と言われている.

*2:日奥,日親は日本の名僧に名を連ねる. 

反骨の導師 日親・日奥 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

日蓮聖人入滅後の門流の動向について

日蓮教団系譜図

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日蓮聖人入滅から中世の時代(初期門流の動向)

 日蓮入滅*1後の教団組織は身延山にある聖人の廟所(墓所)の五輪塔を中心に図られた.六老僧(日昭,日朗,日向,日興,日持,日頂)を中心とする直弟子たち(18名)が毎月輪番で廟所を守るため,身延山久遠寺番帳が定められた.
 しかし,弟子たちはそれぞれの地方で布教する信者たちの指導者であり,また幕府や諸宗団からの弾圧を受ける中,輪番の勤めは予定通りには実行されず,身延山近郊の甲州駿河を布教地点とする日興が在住し廟所を守った.続いて日向も登山し身延の運営にあたった.
 日興は純信・厳格に日蓮聖人の教えを固持したため,身延の地頭である南部実長との間に意見の対立を見るに至って身延を去った.日興離山後,日向が身延の住持となり経営・教化にあたった.
 結局身延輪番制は当初どおり実施されず,教団は各地に分立,それぞれがみずからの正当性を主張しながら発展していった.
身延門流
 日蓮聖人の墓所を守る身延山久遠寺は,教団の中心となる寺院として甲斐,駿河に勢力を伸ばした.
富士門流
 身延山を去った日興(1246-1333)は,駿河国上野(富士宮)に移り,地頭南条時光の援助を受け,北山本門寺大石寺を建立した.
日朗門流
 日朗(1245-1320)は,鎌倉の比企谷妙本寺を本拠地に,池上本門寺(聖人入滅後の聖地)の住持を兼ねた.

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四条門流
 日朗の弟子日像(1269-1342)は京都での伝道を遺言され,妙顕寺を建立,天皇勅願寺となる.妙顕寺の繁栄に対し,度々の法難(比叡山延暦寺の攻撃)を受ける.
中山門流
 日常(壇越富木常忍)は中山法華経寺を開創した.その後日高が住持となった.破門された日親は純粋な法華信仰を生涯貫いた*2
不受不施派
 「僧は法華信者以外から布施を受けず,信徒も法華僧以外に布施をしない」という不受不施義を貫いたもの(日奥1565-1630).

日奥 - Wikipedia

 江戸時代以来寺請が禁止されていたが,岡山や千葉では地下に潜行していた.日指派日正*3は幕末から再興運動を行い,明治9年公許されて岡山県金川妙覚寺を建立した.

日正 (不受不施派) - Wikipedia

 このように,門流は東国・西国*4に教線を伸長させた.その結果,都市・農村部の武士・農民・商工人が帰依し,京都では公家や各地の武家が帰依するに至った.

*1:弘安5年10月13日(1282年)辰の刻(AM8時頃)61歳.

*2:京都に本法寺を建立.

*3:昭和 4年に帝釈堂拝殿,大客殿, 昭和 9年に「法華経説話彫刻」を完成させた題経寺(柴又帝釈天)16世日済上人は日正の養嗣子.本法寺日運に師事.

*4:中国地方では,日像の弟子大覚妙実(1297-1364)が備前・備中・備後を布教し,備前法華の基礎を築く.