水色の写真館

暮らしの雑文

ゴータマ・シッダールタ

ゴータマ・シッダールタ太子の家系図ついて

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 シャクヤ族(コーサラ国の属国):ネパール中部ターライ平原,カピラ城(王城),クシャトリヤ

 漢訳律『五分律*1』による家系図(1)と阿含・『長阿含経』『起世経』による家系図(2)を比較すると,
 父王に(1)には3人の兄弟,そして(2)にはさらに一人の妹がいる.
 父王の兄弟の子供に相違が見える.

*初期仏典

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伝承「天上天下唯我独尊」とアシタ仙人の予言について
・誕生伝説
 「天地の間に存在するすべてのものの中で,われこそがもっとも尊い」という誕生偈と言われている言葉の意味は,多くの人々を救済するための釈尊の決意と自覚を象徴している.
・予言
 誕生の喜びの宴席に呼ばれた婆羅門の学者アシタは「王子は王位を継げばインドの転輪聖王(理想の王)に,出家すれば真理を覚って世の人々を救うブッダ(精神世界の王)となる」と予言した.
 仏陀への道を宿命付けられた2つのエピソードと,生まれてすぐに生母を亡くす,老病死への不安感,贅沢な暮らしのはかなさ,大国に隷属している自国の,いつ侵略されるか知れない危うさなど,シッダールタ太子の生活の文脈が出家への物語をコンステレーション化する.
 偉大なるだるま(法)を説いた釈尊は永遠の真理であることを後世に伝承するものである*2

*1:資料としての評価は『五分律』の方が低い.

*2:「仙人の予言」は当時の貴人に係る大切なイベントであり,王子誕生の必然性を示す上で,無くてはならないものであった.

ブッダと釈尊

歴史資料と伝承
 紀元前5世紀頃の古代インドでは,「仏陀」(buddha)は固有名詞としての釈尊を指すのではなく,目覚めた人,覚者の意味を持つ普通名詞であった.
 仏伝(仏陀の伝記)資料は,仏伝のみを記述している経典(仏伝経典)として『ブッダチャリタ』(馬鳴),『ラリタヴィスタラ』などの文献があるが,成立年代が釈尊滅後数世紀を経ていること及び,脚色・粉飾が著しいことから,原始経典(原始仏典)と言われている経典群の中から,伝記の史実部分を抽出し,歴史上の釈尊を浮かび上げようとしている.

*原始経典 

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4大仏跡地(古代東方インド)
 ルンビニー・・・・・釈尊誕生の地
 ブッダガヤ・・・・・釈尊成道の地
 サールナート・・・・釈尊初転法輪の地 (鹿野苑
 クシナガラ・・・・・釈尊入滅の地

「八相正道」の種類について
① 降兜率天釈尊の前生(菩薩)が娑婆世界に降りる.
② 入胎シャキャ族マーヤー王妃の左脇腹から入り,体内に宿る.
③ 出胎ルンビニー園で,生母マーヤーの右脇からシッダールタが生まれ,7歩歩き「天上天下唯我独尊」と発した.
④ 出家四門(東西南北)から順に出て四苦(生老病死)に苦しむ人々を見て世の無常を観じ出家,修行求道者となる.29歳.
⑤ 降魔6年の苦行の後,ブッダガヤ菩提樹の下で禅定(瞑想),マーラ(悪魔)襲来を撃退する.
⑥ 成道時は12月8日35歳大乗歴に悟りを完成,ブッダ(覚者)となる.
初転法輪サールナートにて5比丘に初めて行った説法(=四諦八正道).5人が帰依して最初の仏弟子となる.
⑧ 入滅(涅槃)クシナガラにて入滅,80歳.

 

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名僧 日親上人について

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布教の特徴
 日親は上総国(千葉県)の埴谷の妙宣寺の日英について出家し,後継者の一人としてエリートの道を歩む.妙宣寺は中山法華経寺を本山とする中山門流である.日祐(千葉胤貞の猶子*1)が本山の第三世貫主に着任し豪族千葉氏との深い関係が生じる.
 日祐は多くの信仰の存在を容認するが,日親はそれを認めず,日祐・千葉氏を厳しく批判したため中山門流から破門された.
 日親は,他宗の僧へ論争をしかけ,将軍に諫暁(1439)を行った.そのため激しい法難を度々受けたが純粋(不受不施)な法華信仰を生涯貫いた.

 日親(1407-1488)は京都四条綾小路に本法寺*2を開いた(1436と伝えられる).日親は大規模になった寺内の秩序を整えるため本法寺法式を定めた.

本法寺法式(1484)
一 朝昼晩の三回にわたって行われる勤行に欠席してはならない、とくに朝の勤行には決して欠席しないように。もし朝の勤行に一度欠席したら、所定の罰金を出さなければならない、読経が始まって後来た者は、所定の半分の罰金を支払うこと。
一 本堂の御番衆は、香・花・灯明を一年中絶やさぬこと。
一 本法寺で法談がある時は、衆徒として門外に出てはならない、どうしてもしなくてはならない所要があれば、その前後に行うこと。
一 行先を知らせずに他所に宿泊してはならない、白昼も同じである。
(十四箇条省略)

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日親上人血染めの宝塔(書きかけの御題目) 

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*1:武家と寺院の結びつきは古代よりあった.

*2:室町〜江戸期の日蓮宗の重要な資料護持されている.

ミスチルに仏教観を説いているようなメタファーを感じた

最近,劇場版コード・ブルーがヒットしているからだと思いますがHANABIをよく耳にします.
今までメロディを楽しんでいて気づかなかったのですが,ミスチル桜井和寿さん)の詩には仏教観を説いているようなメタファーを感じます.

ミスチルは人間に対し,人間世界に対して歌う.
「決して捕まえることの出来ない 花火のような光だとしたって」
移ろい行く世界,あらゆる事物には,永遠・不変なものなどない(諸法無我).
「サヨナラが迎えに来ることを,最初からわかっていたとしたって」
この無常観(諸行無常),花火のような光の明滅から一瞬の刹那生滅(無常性)を語る.

「手に入れたものと引き換えにして切り捨てたいくつもの輝き」
愛する人との別れの苦しみ(愛別離苦),求める物が得られない苦しみ(求不得苦)
「もう一回 もう一回」
これで最後にしようと決意しても,また求めまた恋しくなるとらわれの心と体(煩悩),私たちはこの世で迷い続ける.

「波風が立った世界をどれだけ愛することができるだろう?」
この世の中はすべてのものは苦しみである(四苦八苦),自分の思い通りにならない(一切皆苦),とらわれの心を破し(空観),すべての現象は仮のもの(一瞬の刹那)ながら,その事柄をしっかり受けとめ(仮観),さまざまな対立を超越した世界に体達する(中観)一心三観(龍樹).

「考えすぎで言葉に詰まる 自分の不器用さが嫌い でも妙に器用に立ち振舞う自分は それ以上に嫌い」
ここ,女子がグッとくるところらしい.
うわべばかり色眼鏡でものを見るのではなく,自身も含めて全ての存在のありのままの真実に即した姿・道理(諸法実相).
諸行無常諸法無我,この世の苦悩や真理を深く歌ってるわ.

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誰も皆悲しみを抱いている だけど素敵な明日を願っている

「どれぐらいの値打ちがあるだろう? 僕が今生きているこの世界に」
世の中のあらゆる事物は常に変化し互いに影響を与え合う,すなわち通時的・共時的相依関係にあります.事物には,それが起こった原因があります.原因に何かしらの関係が縁となって加わり,結果が生じるのです.もちろん自分自身も同じようにあらゆる関係の中に存在しているのです.「無常」であり「「無我」であり,何一つ思い通りになるものはなく,望んだとしても完全に手に入れられるものなどないのです.
このように,すべては変化し続ける(無常),不変の実体はない(無我),すべては連続性・関係性の中で成立(縁起)しているのです(空).
だから人は「誰も皆悲しみを抱いている だけど素敵な明日を願っている」のでしょう.

季節は秋へ

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日蓮教団の京都進出について

日蓮宗の京都進出と妙覚寺法式・寛正の盟約にみられる不受不施思想の特徴について

  日蓮宗は,明治9年の「日蓮宗」という宗派名公称以前は,法華宗日蓮法華宗*1と呼ばれていた.
 日興が身延の地を去って(1288)から,身延の中心は日向,日朗,日昭は関東に広く普及し,特に日朗は池上本門寺を中心に勢力を拡大した.また日常は下総に拠点を構えた.京都への進出は,聖人から京都弘通を委嘱された日朗の流れを汲む日像によって開始された.妙顕寺天皇勅願寺1334)となり又,日朗門流日静建立の本国寺も公家・武家の帰依を得て勢力を伸ばし,後に勅願寺の綸旨を賜った.
 一方で妙顕寺四条門流)から分かれた日実・日成は妙覚寺妙覚寺門流)を建立,妙顕寺・本国寺*2(六条門流)の穏健・寛容な布教姿勢(摂受)に対して,強義折伏と謗法の堂社や僧侶等の不受不施の姿勢を法度(妙覚寺*3法式1413)を定めることにより推し進めた.中山門流においても,日什が独立し日什門流妙満寺派)を形成した.さらに妙顕寺の日隆も妙顕寺から袂を分け,日隆門流を形成,本迹勝劣を主張,日真も妙顕寺を出て日真門流を形成した(その他下図の通り).
 こうした門流の分立,門流間の対立が激しく一方で延暦寺の圧力がある中,折伏弘通と不受不施を推し進めるための門流の一致団結が図られた*4(寛正の盟約1466).これが,その後の日蓮教団発展の礎えとなった.

永禄の規約の大意と背景

 町衆の支援を受けた日蓮宗は,京都二十一箇本山*5を中心に大きく発展した.室町時代には商工業の発達により経済発展を遂げた町衆が檀信徒となって大いに繁栄し隆盛を誇ったが,天文5年(1536)に比叡山との対立から発生*6した天文法難により全ての法華宗寺院が焼かれ宗徒は洛外に追放された.京都において日蓮宗は一時禁教となるが,天文11年(1542)に勅許が下りて京都帰還が許され,後に十五本山が再建されているが,教義の違いなどで必ずしも一枚岩ではなかった*7
 永禄7年(1564),京都日蓮宗諸本山の合意のもと,一致派と勝劣派の融和をはかり,教団の立て直しを目指し,「永禄の規約」が締結された.

 近世に移行するなかで,権力に屈しない日蓮宗*8はさまざまな弾圧を受け続けた.織田信長日蓮宗と浄土宗両宗の僧を集め中立の高僧に判定人を依頼した上で法論を戦わせた(『安土宗論』,1579).日蓮宗の敗に終わると,信長は日蓮宗側に他宗を誹謗中傷するような布教方法は一切禁じることを命じた.
 豊臣秀吉は,1595年(文禄4年)方広寺大仏殿千僧供養会のため,天台宗真言宗律宗禅宗,浄土宗,日蓮宗時宗一向宗に出仕を命じた.この時日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派(多数の僧侶)と,出仕を拒み不受不施義の教義を守ろうとする不受不施派に分裂した.妙覚寺・日奥は出仕を拒否して妙覚寺(京都)を去っている.
 徳川家康は不受派の弾圧を続け,大坂城で日奥と日紹(受不施派)を対論(大阪対論,1599)させた.権力に屈しようとしない日奥を対馬流罪にした.1608年,浄土宗の増上寺・廓山と妙満寺・日経との宗論(慶長宗論)で,両者を江戸城で対決させた.日経は,京都六条河原にて耳と鼻を削がれ酷刑に処された(慶長法難,1609年).不受不施派は非合法化された.こうして日蓮教団は,受派と不受派に分裂し,互いにその教義を主張し合うようになっていった.1616年日奥は赦免されて妙覚寺に戻った.
 1630年久遠寺・日暹(受不施派)は,池上本門寺・日樹(不受不施派)が久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴え,江戸城にて両派が対論(身池対論)した.不受不施派側は敗訴し,流罪の刑に処せられた.不受不施派は江戸時代以来寺請が禁止されていたが,岡山や千葉では地下に潜行していた.日正は幕末から再興運動を行い,明治9年公許されて岡山県金川妙覚寺を建立した.

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妙覚寺法式」応永二十年(1413)
 妙覚寺門流日成は強義折伏・不受不施などの一門の法度を定めた.

法華宗真俗異体同心法度の事
一、謗法の堂社に於いては参詣を致すべからざる事。但し見物遊覧公役等を除く
一、謗法の僧侶等に於いては供養を成すべからざる事。但し世間仁義愛礼等を除く
一、たとえ誘引の方便たりと雖(いえど)も、直ちに謗法供養を受くべからざる事。
一、檀越となって社参物詣を致し謗法供養を成す輩は堅くこれを呵責(かしゃく)せしむべし、もし再三に及び猶(なほ)これを信用せずんば大小をえらばず親疎(しんそ)をえらばずこれを捨つべき事。
一、たとえその夫信者たりと雖(いえど)もその妻受持せずんば三箇年の間は、その小師(こじ)間断(かんだん)なく教誡を加うべし、なお以て信順の儀無くんば、夫婦共にこれを捨つべき事。
一、僧俗共に不信謗法の振る舞いあらん時、これを見聞しながら寺家へ披露致さずんば、同罪たるべき事。
一、当寺の法式に於いてもし不審の儀あらば、幾たびたりと雖(いえど)も存分をのべ決断を遂げて捨邪帰正(しゃじゃきしょう)を用い、その様子に従ってこれを弘通すべし、もしその已前己情の新義を構える輩は、仏法の重科をなすべき事。
一、檀那謗法の業治定の後その小師としてこれを捨つる時は自余の僧衆としてはそのもとに出入すべからざる事。但し自余の所用等を除く
一、謗法の投げ銭に於いては衆僧一同これを捨つべき事。
妙覚寺住持 日成(他二名略)

「寛正の盟約」寛政七年(1466)
一致和睦六箇条
一、高祖(日蓮聖人)の所立、本迹一体の事。但し機情昇進等勝劣あり
一、異体同心の志をもって、折伏弘通なすべき事。
一、謗法の寺社に於いて、物詣を致すべからざる、相互を堅くするを禁ずる事。
一、謗法者の供養を受けるべからざる事。但し世間仁義愛礼を除く
一、法理に就いて強弱の両篇ありと雖(いえど)も、強義をもって正事をなすべき事。
一、真俗の輩初発心の各寺に背を向けるべからず、然るに余寺相互に許容すべからざる事。
但し談合を遂げ事相互に依れば許容すべし
右諸門流契約状、如件
(京都諸山代表列名省略)

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*1:例:身延山久遠寺は「法華宗久遠寺派」.

*2:江戸時代以降本圀寺となる.

*3:不受不施の中心寺院,日興上人・歴代住持.

*4:長続きはしなかった.

*5:21本山から16本山(日蓮宗系8・法華宗系7・他1再興されず)に減.

*6:松本問答.

*7:日蓮教団の特徴.

*8:宗派としての特徴.

天台の教え (八教)

 天台大師は釈尊の説法を五時八教によって判釈した.この中で説法の形式・仕方を分類したものを化儀の四教(頓(とん)・漸(ぜん)・秘密(ひみつ)・不定(ふじょう))といい,内容・教理の面を分類したものを化法の四教(蔵(ぞう)・通(つう)・別(べつ)・円(えん))とう.これらはよく薬の調合の仕方(化儀)と薬味(化法)に喩えられる.

化儀の四教
 釈尊は真理を頓(ただ)ちに説き示したり(頓*1),浅い所から深い所へと漸次(ぜんじ)に説いたり(漸*2),また同じ法座にいながら聴く者によって説法の内容が異なって聞こえる(同聴異聞)というような他の誰がどのような説法を聞いているのかわからないようにして個々に対して法を説き衆生それぞれに別々の利益を生ぜしめる秘密不定教(秘密*3)を説いたり,衆生の機根に従って不定教(ふじょうきょう)(不定*4)を用いたりした.五時の法華涅槃時には通じていない.

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化法の四教
「化法の四教」は三蔵教・通教・別教・円教で,三蔵の教えは小乗の教えで,通教は三乗通学の教えである.別教は菩薩への教えであり円教は同じ菩薩への教えであるが円融相即・無礙が根幹であり別教と区別される.

(蔵教 – 小乗の教え)
蔵経は現象界を明らかにする.

蔵教とは三蔵教の略称で,三蔵とは経(経典)・律(戒律)・論(解説)をいう.小乗教を指している.蔵教は声聞・縁覚の二乗を正機とし,菩薩を傍機として説かれた教えである.その教義は,声聞には生滅の四諦*5,縁覚には十二因縁,菩薩には六度六波羅蜜)と別々の機根に応じ修行させようとするものである.この世(二十五有*6・六道*7(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)・三界*8(欲界*9・色界*10・無色界*11))は生死の苦に束縛されていて(苦諦),この世の苦の原因は(前世における)誤った見解・煩悩(見思惑 )と,そこからもたらされる業(行い)の報い(業因)によるものであるとし(集諦),この誤った見解・煩悩を断ずるためには空理を悟るべきことを説いている(滅諦).
 蔵教の空理観は一切の事物を構成要素に分析していき,それらは因縁が尽きれば滅して空になると観る「析空観(しゃくくうかん)*12」を説いている.見思惑という誤った見解・煩悩と業を断尽し(道諦*13),再び二十五有六道三界の苦界に生を受けることがなくなるということを蔵教の悟り(涅槃)としている.これらの誤った見解・煩悩は,肉体があるかぎり心を惑わすものであるから,身を灰にし心智を滅失することによって,はじめて真の涅槃に入ることができるとされている(無余涅槃*14).
 蔵教の教えは目に見える世界に限られている,有為*15の現象界のなかで生滅をみようとする真理である.

 見惑(理論的な迷い)を三界(欲界・色界・無色界 )に分ける.また各三界をそれぞれ四諦に分ける.見惑(五見・五煩悩)は,三(界)×四(諦)で十二に分けられ,これら十二を見惑の五煩悩のうち幾つかで分ける.また,五見のうち幾つかで分ける.合わせて欲界32・色界28・無色界28の八十八となる(八十八使).
 思惑(実践的習慣的迷い)も三界と思惑の四惑(貪・瞋・癡・慢)のうち幾つかで分ける.分け方は欲界(貪・瞋・癡・慢),色界(貪・癡・慢),無色界(貪・癡・慢)合わせて十となる.こういった分類の仕方で八十一品となる.

(通教 – 小乗から大乗に転進させるための教え)
通教は空観を明らかにする.

 通教は,蔵教では傍機であった菩薩を正機とし,声聞・縁覚を傍機として説いた権大乗の教えである.通教の通とは,前の蔵教に通同し,後の別教と円教にも通じるという意味である.通教では声聞・縁覚・菩薩の三乗共に共通の修行である.
 通教では三界の諸法は,諸法がそのままで空であると観ずる観法「体空観*16」を説いている.蔵教では三界のすべての存在を肯定し,それを空と観ずるために析空観を用いるが,通教では三界六道の苦界を滅するために,始めからすべての存在を否定し,現象界のすべては妄想から生じる幻影であるとするために体空観を用いる.『般若心経』がこの通教を代表する.

(別教)
別教は真如と無明を明らかにする.

 別教は,菩薩のみに説かれる(大乗に特有・特別の)教えで,前の蔵・通二教や後の円教とも異なることからその名がある.前の二教が空理のみを説くのに対し,広く空・仮・中の三諦を明かす.空理とは,あらゆる存在には固定した実体がないこと「空諦」をいい,「仮諦」とは,あらゆる存在は因縁によって仮りにその姿が現れていることをいい,「中諦」とは,あらゆる存在は空でもなく仮でもなく,しかも空であり仮でもあるという,空・仮の2辺(二項対立)を超越したところをいい,真実があるとする.
 別教で説かれる空・仮・中の三諦は互いに融合することなくそれぞれが隔たっていることから「隔歴(きゃくりゃく)の三諦」といわれ,一切の事物について差別のみが説かれて融和が説かれていない.ここで説かれる中諦は,空・仮の2辺を離れた単なる中道であるため,これを「但中(たんちゅう)の理」という.また別教では,蔵・通二教で説かれた三界(界内の中の生死輪廻)の外(外界),現象を超越いたところにも迷いが有るとして真如*17(普遍的真理)と無明(最も根本的な煩悩)を説く.六道のほかに,四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)を含む十界すべての因果を明かしているが,それぞれの境界は隔別している.
 このように別教は,三諦円融の義もなく、十界の融通・互具の義もない教えなのである.代表的なものとして,『華厳経』があげられる.

(円教)
円教は,円融,円妙・円満・円足・円頓の教えという意味である.
 空・仮・中の三諦は孤立することなく,一諦の中にそれぞれ三諦をそなえて,円融相即の一心三観である.ここで説かれる中道は別教の「但中」に対し「不但中」という.
 また,円教においては十界互具が説かれ、九界の生命も仏界に具足し,仏界の生命もまた九界の衆生に具有することが明かされている.三諦円融・十界互具の法門は,法華経が説かれてはじめて真実のものとなり,天台大師はこの法華経によって理の一念三千の法門を示した.
 この円教に最もかなうものとして『法華経』があげられる.宇宙法界の一切が円満に融合した当体であることを明かし,理想と現実の相即した総合的な教えであるからである. 

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*1:華厳経の説法がそれにあたるとされる.

*2:小乗から大乗にかけての説法.

*3:得るところの功徳は不定:諸教

*4:それぞれにその機根に応じた(同聴異聞)功徳・利益を得せしめる方法:諸教

*5:諸法は因縁和合によって現じたとし,諸法を実有の如く取り扱う原理の上に四諦を説く.通教:無性の四諦,別教:無量の四諦,円教:無作の四諦

*6:有:存在

*7:衆生自らが作った業により生死を繰り返す六つの世界.

*8:有情(生きているもののこと.)が住んでいる器世間を区別.

*9:欲望(色欲・貪欲・財欲など)にとらわれた生物が住む世界.

*10:欲望を離れた清浄な物質の世界.

*11:欲望も物質的条件も超越し,ただ精神作用にのみ住む世界.

*12:析とは分析のことであり,諸法は生滅無常の事物であることを,先ず諸法を一々分析した後に空を観ずる観法.

*13:煩悩・業を滅するために修する戒・定・慧の三学.

*14:肉体をなくした悟りの状態,この世に生存している間に得られる涅槃は肉体が有るので有余涅槃という.

*15:さまざまな因果関係・因縁のうえに存立する現象.

*16:すべてのものは因縁によってあらわれているが,それは仮体であり,有るようで実は空であると観ずる観法.

*17:釈尊が観察して発見した真理・普遍的真理・ありのままのすがた.

身延山における守塔輪番制について

 日蓮聖人入滅(弘安五年十月・1282)後の教団組織は身延山にある聖人の廟所(墓所)の五輪塔を中心に図られた.六老僧(日昭,日朗,日向,日興,日頂,日持)を中心とする直弟子たち(18名)が毎月輪番で廟所を守るため,身延山久遠寺番帳が定められた(弘安六年正月・1283).
 しかし,弟子たちはそれぞれの地方で布教する信者たちの指導者であり(交通事情),また幕府や諸宗団からの弾圧を受ける中,輪番の勤めは予定通りには実行されず,当初(弘安七年・1284)は身延山近郊の甲州駿河を布教地点とする日興の門流*が在住し廟所を守った.続いて日向も登山し身延の運営(学頭職)にあたった.
 日興は純信・厳格に日蓮聖人の教えを固持したため,身延の地頭(領主)である南部実長との間に意見(身延輪番,謗法)の対立を見るに至って身延を去った.日興離山後,日向が身延の住持となり経営・教化にあたった.
 結局身延輪番制は当初どおり実施されず,教団は各地に分立,それぞれがみずからの正当性を主張しながら発展していった.
 日興が去ってから,身延の中心は日向,日朗・日昭は関東に広く普及し,特に日朗は池上本門寺を中心に勢力を拡大した.また日常は下総に拠点を構えた.
 しかし,教線は東国が中心であり,全国的には及ばなかった.

身延門流
 日蓮聖人の墓所を守る身延山久遠寺は,教団の中心となる寺院として甲斐,駿河に勢力を伸ばした.
富士門流
 身延山を去った日興(1246-1333)は,駿河国上野(富士宮)に移り,地頭南条時光の援助を受け,北山本門寺大石寺を建立した.
日朗門流
 日朗(1245-1320)は,鎌倉の比企谷妙本寺を本拠地に,池上本門寺(聖人入滅後の聖地)の住持を兼ねた.

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中山門流
 日常(壇越富木常忍)は中山法華経寺を開創した.その後日高が住持となった.破門された日親*は純粋な法華信仰を生涯貫いた(京都に本法寺を建立).

その後日朗の流れを汲む日像は京都に教線を伸ばし京都二十一箇本山を中心に大きく発展した.

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四条門流
 日朗の弟子日像(1269-1342)は京都での伝道を遺言され,妙顕寺を建立,天皇勅願寺となる.妙顕寺の繁栄に対し,度々の法難(比叡山延暦寺の攻撃)を受ける.
不受不施派
 「僧は法華信者以外から布施を受けず,信徒も法華僧以外に布施をしない」という不受不施義を貫いたもの(日奥* 1565-1630).

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*日親,日奥は日本の名僧に名を連ねる.

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